哲学者・戸谷洋志さんの『親ガチャの哲学』(新潮新書)をとても興味深く読みました。
宿命
親ガチャとは、2021年の流行語大賞に選ばれた言葉で、親が裕福か貧困かとか、虐待をするような人かどうかで、その後の人生が変わってくる、親は決して選べないから「ガチャ=くじ引き」なのだ、という言葉らしい。
私は2年前に亡くなった父とその3年前に縁を切った人間です。ひどい父親に育てられたと恨んで生きてきました。そんな私でも「親ガチャ」という言葉はどうにもいやだったんですよね。まず言葉の響きが人生を考えるようなものじゃないことが挙げられるし、それに、桜井章一の言葉を借りれば、親を選べないというのは「宿命」ですよね? でも「ガチャ」というのは「運命」じゃないですか。宿命と運命を取り違えていると思うのです。
そのへんの勘違いについては、この本でも指摘されていました。まさに我が意を得たりってな感じでしたが、やはり通して読んでみると、親ガチャという言葉を嫌っているはずの私も、親ガチャ的厭世観には囚われているようなのです。言葉を嫌っても、その言葉に宿る精神を好んでいることに気づかされました。
『キンタマン』
まず著者はこういう言葉で親ガチャ的厭世観を説明します。
「親ガチャ的厭世観とは、苦境に陥った人々が、自分の人生を理解するために選択する、ひとつの宿命論です。自分が偶然に生まれてきた家庭環境によって、その後の人生がどのようなものであるかが完全に決定されている、という考え方であり、それに従うかぎり、出生時の条件の影響をあとから変えることはできません」
「そのため、苦境に陥った人は、生まれた家庭によってその苦境に陥ることがあらかじめ決定されていたのであり、それを変えることができなかったのは、自分のせいではない、と考えるようになるのです」
「しかし、それは同時に、今後も決して自分の人生を好転させることができない、と自分自身に思い込ませることになりますし、より深い精神的な苦境、人生への絶望が引き起こされる可能性もあります」
ここまでは一般論として読めましたが、次からは自分のこととしてしか読めなくなってしまいました。
「「私」が自分の人生を引き受けられないとき、大学に合格できたのは「私」の意志によるものではなく、「私」が置かれた環境によるものが大きいと理解されます。(中略)恵まれた環境に比べれば、「私」の意志が果たした役割など、ほんのささやかなものでしかありません。つまり、大学に合格できたのは、「私」の功績などではなく、両親の手柄になってしまうのです」
以前書いたように、私が大学に行かなかったのは父を喜ばせたくなかったからですが、もっと踏み込んで、彼の「手柄」になることを恐れていたからなんだな、と初めて知りました。
それよりも、ずっと忘れていたことを思い出しました。
もう20年近く前になりますが、脚本家を目指していた頃、『去年殺した女」というタイトルの企画を立てたのです。
主人公の殺し屋が、去年仕事で殺したはずの女を見かける。他人のそら似か? はたまた、殺したはずが実は生きていたのか? はたして女の正体は!? という内容でした。
当時の私の描写力でどこまで書けたかわかりませんが、プロットだけなら充分コンクールで受賞できるレベルのものだったと自負しています。
ところが、プロットができて鼻息が荒くなった私は何の躊躇もなく創作ノートを捨てました。なぜかはわからなかったけど、もう一人の自分も納得していました。
いまから考えると、あれは、父の手柄になってしまうのを恐れていたんですね。だから理由がわからないのに納得してしまった。
でも、おまえはその数年後に受賞してるじゃないか。と言われそうですが、あれはだから苦肉の策で書いた作品なわけですよ。『去年殺した女』ならダメだけど『キンタマン』なら大丈夫。なぜって、受賞当時の父が証言しています。
「キンタマンなんてタイトルじゃ、どこにも自慢できないじゃないか」
父の手柄にされることを防げるタイトルであり、内容であったわけです。心の奥底でずっと、父には絶対に自慢できないシナリオを渇望していたのでしょう。
ところで、秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大も、母親のせいで人生を狂わされたと主張する人物だったようです。加藤のような人を俗に「無敵の人」と言いますが、著者はこの無敵の人にも目を向けます。
「「無敵の人」の起こす自暴自棄な犯罪には、そうした、自分の人生に対する無力感に基づく、特有の無責任が伴っているように思えます」
「そうした無責任に飲み込まれるとき、人間は、いわばエンディングが決定している映画を眺めるように、自分の行動を外部から静観するかのような感覚に陥るのではないでしょうか。そしてそのとき、これは他ならぬ自分の人生なのだから、大切にしなければならない、尊重しなければならないという気持ちも湧き起らなくなるのではないでしょうか」
これこれ! これがすごい。著者は親ガチャ的厭世観に囚われた人ではないようなのに、なぜわかるんだろう?
かつて友人から「おまえはものすごく自分自身を見つめている」と言われたことがあります。自分でも客観的に一歩引いたところから自分を見ている自覚があったんですが、あれはちょっと違いましたね。
私にとって「自分」とは他人事なのです。何があっても心のどこかで父のせいにしている。ちゃんと言葉にして思ったことなんか一度もないけど、今回初めて知ることができました。本物の哲学者の言葉ってすごい。
「親ガチャ的厭世観に囚われている人は、自分が人生の中で何かを達成したとしても、それを自分の功績として認めることができません。あるいは、自分が他者を傷つけたとしても、その責任が自分にあるとは思えません」
「親ガチャ的厭世観に対抗できるとしたら、おそらくそれは、私たちがいかにして責任の条件を取り戻せるのか、自分の人生を自分の人生として引き受けられるのか、に懸かっているように思えます」
なるほど、では、その、自分の人生を自分の人生として引き受けるにはどうすればいいのでしょうか?
『グッド・ウィル・ハンティング』
ハイデガーの言葉としてこんなのが引用されます。
「「私」が「私」であることには何の理由もない。「私」が「私」であることは誰のせいにもできない。だからそれは自分で引き受けるしかない」
「自分自身に向き合わないこと、自分が陥っている苦境から目を背けること。確かにそれは思考停止です。しかし、思考を停止させなければいけないほど苦しめられ、傷つけられている人も存在します。そうした人々に、「自分自身と向き合え」「自分自身を引き受けろ」と要求することは、それ自体が暴力でしょう」
そういえば、父の初盆で兄弟3人が集まったとき、次兄から「お前が一番お父さんの呪縛にがんじがらめになってるな」みたいなことを言われました。それを聞いた長兄が「もう忘れろ」と言ったのですが、あれはここでいう「暴力」だと思う。
だって、「もう忘れろ」ということは、忘れてないおまえが悪いってことじゃないですか。あの自分の息子を広告塔としか思ってなかったひどい父親の責任はどこへ行ったの? 忘れてない俺の責任? アホか!! 忘れられるかよ!!! 50年も心をずたずたに引き裂かれてきたんだよ、こっちは!!!!!
自分を愛せない人に、「あなたが愛してやらなかったら、いったい誰があなたを愛するんですか」みたいなことを言う人がいます。前からああいう人って胡散臭いと思ってたんですが、その所以がようやくわかりました。あれは偽善者ですね。暴力ふるってるんだから。
「私たちは、この世界に生まれてきたくて生まれてきたのではありません。こんな自分になりたくてなったわけではありません。しかし「私」は生まれてきてしまったし、「私」は「私」になってしまったのです。少なくとも、それが不可抗力であったことを他者から承認されないかぎり、「私」は自分が自分であることを受け入れられないでしょう」
電車の中で涙が出ました。
「親ガチャ的厭世観を乗り越えるために求められるのは、何よりまず、社会における対話の場の創出である」
その通りですね。名作映画『グッド・ウィル・ハンティング』のクライマックスで、ロビン・ウィリアムスがマット・デイモンに虐待を受けていた君は少しも悪くない、と何度も言って抱き合いますが、ああいう「対話」の場が必要だということでしょう。
最後に、本書の最後のほうに置かれた一文を引いて筆をおきます。
「人々は互いを許さなければならない」
関連記事
『アイアンクロー』感想(名字ガチャ?)
宿命
親ガチャとは、2021年の流行語大賞に選ばれた言葉で、親が裕福か貧困かとか、虐待をするような人かどうかで、その後の人生が変わってくる、親は決して選べないから「ガチャ=くじ引き」なのだ、という言葉らしい。
私は2年前に亡くなった父とその3年前に縁を切った人間です。ひどい父親に育てられたと恨んで生きてきました。そんな私でも「親ガチャ」という言葉はどうにもいやだったんですよね。まず言葉の響きが人生を考えるようなものじゃないことが挙げられるし、それに、桜井章一の言葉を借りれば、親を選べないというのは「宿命」ですよね? でも「ガチャ」というのは「運命」じゃないですか。宿命と運命を取り違えていると思うのです。
そのへんの勘違いについては、この本でも指摘されていました。まさに我が意を得たりってな感じでしたが、やはり通して読んでみると、親ガチャという言葉を嫌っているはずの私も、親ガチャ的厭世観には囚われているようなのです。言葉を嫌っても、その言葉に宿る精神を好んでいることに気づかされました。
『キンタマン』
まず著者はこういう言葉で親ガチャ的厭世観を説明します。
「親ガチャ的厭世観とは、苦境に陥った人々が、自分の人生を理解するために選択する、ひとつの宿命論です。自分が偶然に生まれてきた家庭環境によって、その後の人生がどのようなものであるかが完全に決定されている、という考え方であり、それに従うかぎり、出生時の条件の影響をあとから変えることはできません」
「そのため、苦境に陥った人は、生まれた家庭によってその苦境に陥ることがあらかじめ決定されていたのであり、それを変えることができなかったのは、自分のせいではない、と考えるようになるのです」
「しかし、それは同時に、今後も決して自分の人生を好転させることができない、と自分自身に思い込ませることになりますし、より深い精神的な苦境、人生への絶望が引き起こされる可能性もあります」
ここまでは一般論として読めましたが、次からは自分のこととしてしか読めなくなってしまいました。
「「私」が自分の人生を引き受けられないとき、大学に合格できたのは「私」の意志によるものではなく、「私」が置かれた環境によるものが大きいと理解されます。(中略)恵まれた環境に比べれば、「私」の意志が果たした役割など、ほんのささやかなものでしかありません。つまり、大学に合格できたのは、「私」の功績などではなく、両親の手柄になってしまうのです」
以前書いたように、私が大学に行かなかったのは父を喜ばせたくなかったからですが、もっと踏み込んで、彼の「手柄」になることを恐れていたからなんだな、と初めて知りました。
それよりも、ずっと忘れていたことを思い出しました。
もう20年近く前になりますが、脚本家を目指していた頃、『去年殺した女」というタイトルの企画を立てたのです。
主人公の殺し屋が、去年仕事で殺したはずの女を見かける。他人のそら似か? はたまた、殺したはずが実は生きていたのか? はたして女の正体は!? という内容でした。
当時の私の描写力でどこまで書けたかわかりませんが、プロットだけなら充分コンクールで受賞できるレベルのものだったと自負しています。
ところが、プロットができて鼻息が荒くなった私は何の躊躇もなく創作ノートを捨てました。なぜかはわからなかったけど、もう一人の自分も納得していました。
いまから考えると、あれは、父の手柄になってしまうのを恐れていたんですね。だから理由がわからないのに納得してしまった。
でも、おまえはその数年後に受賞してるじゃないか。と言われそうですが、あれはだから苦肉の策で書いた作品なわけですよ。『去年殺した女』ならダメだけど『キンタマン』なら大丈夫。なぜって、受賞当時の父が証言しています。
「キンタマンなんてタイトルじゃ、どこにも自慢できないじゃないか」
父の手柄にされることを防げるタイトルであり、内容であったわけです。心の奥底でずっと、父には絶対に自慢できないシナリオを渇望していたのでしょう。
ところで、秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大も、母親のせいで人生を狂わされたと主張する人物だったようです。加藤のような人を俗に「無敵の人」と言いますが、著者はこの無敵の人にも目を向けます。
「「無敵の人」の起こす自暴自棄な犯罪には、そうした、自分の人生に対する無力感に基づく、特有の無責任が伴っているように思えます」
「そうした無責任に飲み込まれるとき、人間は、いわばエンディングが決定している映画を眺めるように、自分の行動を外部から静観するかのような感覚に陥るのではないでしょうか。そしてそのとき、これは他ならぬ自分の人生なのだから、大切にしなければならない、尊重しなければならないという気持ちも湧き起らなくなるのではないでしょうか」
これこれ! これがすごい。著者は親ガチャ的厭世観に囚われた人ではないようなのに、なぜわかるんだろう?
かつて友人から「おまえはものすごく自分自身を見つめている」と言われたことがあります。自分でも客観的に一歩引いたところから自分を見ている自覚があったんですが、あれはちょっと違いましたね。
私にとって「自分」とは他人事なのです。何があっても心のどこかで父のせいにしている。ちゃんと言葉にして思ったことなんか一度もないけど、今回初めて知ることができました。本物の哲学者の言葉ってすごい。
「親ガチャ的厭世観に囚われている人は、自分が人生の中で何かを達成したとしても、それを自分の功績として認めることができません。あるいは、自分が他者を傷つけたとしても、その責任が自分にあるとは思えません」
「親ガチャ的厭世観に対抗できるとしたら、おそらくそれは、私たちがいかにして責任の条件を取り戻せるのか、自分の人生を自分の人生として引き受けられるのか、に懸かっているように思えます」
なるほど、では、その、自分の人生を自分の人生として引き受けるにはどうすればいいのでしょうか?
『グッド・ウィル・ハンティング』
ハイデガーの言葉としてこんなのが引用されます。
「「私」が「私」であることには何の理由もない。「私」が「私」であることは誰のせいにもできない。だからそれは自分で引き受けるしかない」
「自分自身に向き合わないこと、自分が陥っている苦境から目を背けること。確かにそれは思考停止です。しかし、思考を停止させなければいけないほど苦しめられ、傷つけられている人も存在します。そうした人々に、「自分自身と向き合え」「自分自身を引き受けろ」と要求することは、それ自体が暴力でしょう」
そういえば、父の初盆で兄弟3人が集まったとき、次兄から「お前が一番お父さんの呪縛にがんじがらめになってるな」みたいなことを言われました。それを聞いた長兄が「もう忘れろ」と言ったのですが、あれはここでいう「暴力」だと思う。
だって、「もう忘れろ」ということは、忘れてないおまえが悪いってことじゃないですか。あの自分の息子を広告塔としか思ってなかったひどい父親の責任はどこへ行ったの? 忘れてない俺の責任? アホか!! 忘れられるかよ!!! 50年も心をずたずたに引き裂かれてきたんだよ、こっちは!!!!!
自分を愛せない人に、「あなたが愛してやらなかったら、いったい誰があなたを愛するんですか」みたいなことを言う人がいます。前からああいう人って胡散臭いと思ってたんですが、その所以がようやくわかりました。あれは偽善者ですね。暴力ふるってるんだから。
「私たちは、この世界に生まれてきたくて生まれてきたのではありません。こんな自分になりたくてなったわけではありません。しかし「私」は生まれてきてしまったし、「私」は「私」になってしまったのです。少なくとも、それが不可抗力であったことを他者から承認されないかぎり、「私」は自分が自分であることを受け入れられないでしょう」
電車の中で涙が出ました。
「親ガチャ的厭世観を乗り越えるために求められるのは、何よりまず、社会における対話の場の創出である」
その通りですね。名作映画『グッド・ウィル・ハンティング』のクライマックスで、ロビン・ウィリアムスがマット・デイモンに虐待を受けていた君は少しも悪くない、と何度も言って抱き合いますが、ああいう「対話」の場が必要だということでしょう。
最後に、本書の最後のほうに置かれた一文を引いて筆をおきます。
「人々は互いを許さなければならない」
関連記事
『アイアンクロー』感想(名字ガチャ?)
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。