シネフィルの松本穂香が絶賛していたというので見に行ってみた韓国映画『ローリングガール』がとても美味でした。
しかしながら、見始めたとき「しまった!」と思ったんですよね。なぜって、私はかねてから「引きこもり映画」に厳しいというか、引きこもりが引きこもりを脱してハッピーエンドという映画がどうしても好きになれないのです。
引きこもりは何の役にも立っていない。だから脱しないといけない。ほとんどの引きこもり映画は、そういう社会通念に負けてしまっているというか、主人公が外の世界に出て行って働き始めるとか、何らかの「成長」が必ず描かれるじゃないですか。成長しない主人公を描いた映画なんてごまんとあるのに、なぜか引きこもり映画では主人公は必ず成長する。
成長なんかしなくていいよ、何の役にも立たなくていいよ、それでも、私はあなたのことが大切なのだ、という地平を切り拓いてくれたらいいのだけど、ほぼすべての引きこもり映画はそうなっていない。でも、それでは、「役に立つ人間だけが尊い」という優生思想につながる危険性があるのではないか。
だから、『ローリングガール』という引きこもり映画をわざわざ電車に乗って見に来たのは失敗だったと映画が始まってから焦ったのでした。松本穂香がほめてるからという理由だけで見に来た自分を呪いました。
ところが……!
『ローリングガール』は凡百の引きこもり映画と同じく、最後で主人公が引きこもりを脱する映画でありながら、なかなか面白かったのです。少しも残念な映画じゃなかった。
なぜか。
主人公は25歳で引きこもり。母親とはどういう関係なのか、同居はしてないけれど、家に居させてもらっている。コロナ禍で客がほとんど来ないキンパ(韓国の巻き寿司)の店の運営をやれと言われ、いやいやキンパを作ることになる。
その過程で、好きな人とのキュンな瞬間を味わったり、大量の注文をする客のために家から遠く離れた山の上までキンパを届けたり、そうするうちに、いつまでも引きこもりを続けるわけにはいかないと、普通に就活して面接を受ける。ここらへん、とてもいやでした。ああ、この映画も『俺の話は長い』や『0.5の男』みたいに「役に立たない人間はダメ」という思想の映画なんだな、と。
でも、面接で「あなたの得意なことは?」と訊かれた主人公は無意識に「キンパづくりです」と答えて「あ!」となる。そして、母親が売りに出していたキンパ店をおそらく買って(出世払いか)一人で切り盛りするようになる。
無職だった主人公が手に職をつけた。それは「成長」でしょうが、その職場が母親のキンパ店。困ったら助けてもらえるだろうし、彼女がもってる店か否かの違いこそあれ、それまでの延長線上のことをしてるだけ。何も変わらない。
つまり、彼女は、本当の意味で引きこもりを脱したのではないのですね。店は家ではないけど、やっぱり母親の店だし家にかぎりなく近い。職は得たけど、本式に店を経営し始めるまでに彼女はキンパ店を営んでいた。運営者から経営者に変わっただけ。責任は伴うけど、それでも、家に閉じこもっていたときと特に生活は変わらない。変わったといえば、好きな人とバイクで相乗りするくらい。
『ローリングガール』は、引きこもりを脱したけど脱してないし、やっぱり脱してるともいえるし、という、微妙な匙加減が絶妙だと思いました。いままでの引きこもり映画が「完全に引きこもりを脱していた」ことから考えると、この匙加減は「革命」ともいえましょう。
コロナ禍でキンパ店を営むというのは、特に「役に立つ」ことでもないですしね。少しは役に立ってるけど、主人公はまだまだ親に甘えてる感じ。その「成長してない感」が上々。
いい映画でした。松本穂香が絶賛するのもわかる。
しかしながら、見始めたとき「しまった!」と思ったんですよね。なぜって、私はかねてから「引きこもり映画」に厳しいというか、引きこもりが引きこもりを脱してハッピーエンドという映画がどうしても好きになれないのです。
引きこもりは何の役にも立っていない。だから脱しないといけない。ほとんどの引きこもり映画は、そういう社会通念に負けてしまっているというか、主人公が外の世界に出て行って働き始めるとか、何らかの「成長」が必ず描かれるじゃないですか。成長しない主人公を描いた映画なんてごまんとあるのに、なぜか引きこもり映画では主人公は必ず成長する。
成長なんかしなくていいよ、何の役にも立たなくていいよ、それでも、私はあなたのことが大切なのだ、という地平を切り拓いてくれたらいいのだけど、ほぼすべての引きこもり映画はそうなっていない。でも、それでは、「役に立つ人間だけが尊い」という優生思想につながる危険性があるのではないか。
だから、『ローリングガール』という引きこもり映画をわざわざ電車に乗って見に来たのは失敗だったと映画が始まってから焦ったのでした。松本穂香がほめてるからという理由だけで見に来た自分を呪いました。
ところが……!
『ローリングガール』は凡百の引きこもり映画と同じく、最後で主人公が引きこもりを脱する映画でありながら、なかなか面白かったのです。少しも残念な映画じゃなかった。
なぜか。
主人公は25歳で引きこもり。母親とはどういう関係なのか、同居はしてないけれど、家に居させてもらっている。コロナ禍で客がほとんど来ないキンパ(韓国の巻き寿司)の店の運営をやれと言われ、いやいやキンパを作ることになる。
その過程で、好きな人とのキュンな瞬間を味わったり、大量の注文をする客のために家から遠く離れた山の上までキンパを届けたり、そうするうちに、いつまでも引きこもりを続けるわけにはいかないと、普通に就活して面接を受ける。ここらへん、とてもいやでした。ああ、この映画も『俺の話は長い』や『0.5の男』みたいに「役に立たない人間はダメ」という思想の映画なんだな、と。
でも、面接で「あなたの得意なことは?」と訊かれた主人公は無意識に「キンパづくりです」と答えて「あ!」となる。そして、母親が売りに出していたキンパ店をおそらく買って(出世払いか)一人で切り盛りするようになる。
無職だった主人公が手に職をつけた。それは「成長」でしょうが、その職場が母親のキンパ店。困ったら助けてもらえるだろうし、彼女がもってる店か否かの違いこそあれ、それまでの延長線上のことをしてるだけ。何も変わらない。
つまり、彼女は、本当の意味で引きこもりを脱したのではないのですね。店は家ではないけど、やっぱり母親の店だし家にかぎりなく近い。職は得たけど、本式に店を経営し始めるまでに彼女はキンパ店を営んでいた。運営者から経営者に変わっただけ。責任は伴うけど、それでも、家に閉じこもっていたときと特に生活は変わらない。変わったといえば、好きな人とバイクで相乗りするくらい。
『ローリングガール』は、引きこもりを脱したけど脱してないし、やっぱり脱してるともいえるし、という、微妙な匙加減が絶妙だと思いました。いままでの引きこもり映画が「完全に引きこもりを脱していた」ことから考えると、この匙加減は「革命」ともいえましょう。
コロナ禍でキンパ店を営むというのは、特に「役に立つ」ことでもないですしね。少しは役に立ってるけど、主人公はまだまだ親に甘えてる感じ。その「成長してない感」が上々。
いい映画でした。松本穂香が絶賛するのもわかる。
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