太宰治の『新ハムレット』という短編集に収録されている「待つ」というたった4ページの掌編小説がとても印象深く、読む者の考察意欲を掻き立てる内容でした。

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主人公の少女は「誰か」を待っている。その「誰か」とは誰なんでしょうか。


「死」の影
文庫本の解説者は「この主人公は、神、救い、罰、死……と軽々しく口には出してはならぬ、もっと深い、何かを待っているのだ」と言っていますが、私はこの小説には「死」の影が色濃く表れていると感じます。

結論から申せば、少女は「死神」を待っているのだと思う。

「私の待っているものは、人間でないかも知れない」
「私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです」
「死にたくなります」
「いよいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります」


これらの記述からわかるのは、少女は人間嫌いで、厭世観があり、自殺願望があるということです。

死にたいのですね。心のどこかで死神の到来を願っている。だから、毎日毎日省線の小さな駅に行き、死神を待っているのです。死のうとしている。あるいは、死のうとしているのではなく、突然、大病に侵されるとか、事故に遭うとか、そういうことを望んでいる。でも……

「どなたか、ひょいと現れたら! という期待と、ああ、現れたら困る、どうしようという恐怖と、でも現れたときには仕方が無い、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟と、(後略)」

これはよくわかります。私も自殺願望をもっているので。死にたくとも、いざ死ぬとなったら怖いものです。

そして、私の「死神説」を強固にしてくれるのは次の一節です。

「大戦争が始まってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷たいベンチに腰をかけて、待っている」

大戦争が始まってから待つようになったというのはかなり大きなポイントでしょう。死ぬ確率が高まった。死神がいつ来てもおかしくない。だから、待つようになったのです。

肝心なのは、この少女が、自分が誰あるいは何を待っているか、わかっていないことです。

人間はみなそうではないでしょうか。

金持ちでもそうでない人でも、「死」は平等にやってきます。人生なんて死ぬまでの暇つぶし、なんて言葉がありますが、我々はみな、生まれてからずっと「死」を待っているのです。いつ来るか知れない「死」を待っている。渇望している人もいるし恐れている人もいる。いずれにしても、「死」は必ず来る。

「待つ」とは、それが「来る」ことを前提としています。そして……

「お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける」

必ずその人を見つけて冥界へ連れていく。「あなた」とはやはり「死神」でしょう。この小説が今も昔も人々の興趣をそそってやまないのは、「死」という普遍的なものを感じさせるからだと思います。




幕切れの一文
この「お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける」

この最後の一文の幕切れは素晴らしいですね。

ですます調で書かれたこの『待つ』においては、「いつか私を見掛ける‟でしょう”」と書くのがセオリーですが、そこをあえて破って「見掛ける」と中途半端な終わり方にしています。

こうすることで、「突然」という感じが生まれます。「死」は突然やってくるものですから。

「待つ」とは、つまり「生きる」ことなのです。


待つ
太宰 治
2012-09-12


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