WOWOW製作の連続ドラマ『東京貧困女子。』を見て、大変感銘を受けました。(以下ネタバレあり)
『東京貧困女子。 ‐貧困なんて他人事だと思ってた‐』(2023、全6回)
原作:中村淳彦
脚本:高羽彩
出演:趣里、三浦貴大、東風万智子、霧島れいか、宮澤エマ
私も趣里と一緒だった
東洋経済オンラインの記者が書いたものが原作らしく、多くの貧困女子に取材した経験が活きているのか、独自の視点に驚かされました。
まず、第1話の貧困女子は、大学生。
父親がリストラされ、両親はともに非正規。学費は奨学金という名の借金で、その返済や、医学部のため学費以外にも多額のお金がかかる。そのうえテニスが大好きで部活をやっており、それにもお金がかかる。空いた時間は全部バイトを入れているがそれでも月に3万は足りない。そこで風俗に手を出した、と。
ほとんどの人は「部活をやめたらいいんじゃないの?」と思いますよね。主役の趣里も私も同じ意見でした。
しかし、原作者をモデルにしたキャラと思しきフリー記者の三浦貴大は「浅はかだ」と相手にしません。
え、何で? でも最後には納得させてくれます。
親がリストラされたのは彼女のせいか?
奨学金が体のいい学生ローンになっているのは彼女のせいか?
医学部がそもそも裕福な家庭の子どもしか相手にしていない仕組みになっているのは彼女のせいか?
三浦貴大は趣里を問いつめます。そして畳みかけます。
しんどい生活の中で、せめて大好きなテニスを楽しみたいという彼女の願いを捨てろとおまえは言うのか。
取材した学生にもう一度会った趣里は己の浅はかさ謝罪しますが、彼女にこう言われます。
「私、普通でいたかっただけです。それがそんなにいけないことですか?」
親を捨てろ
第3話の霧島れいか。
結婚してからも、離婚したあともそれなりに収入のある裕福な生活をしてきたけれど、姉が統合失調症にかかってしまい、自分しか援助してあげられる人間がいなかったからと、援助を始めたら生活が途端に苦しくなったと。
世間は「自分が苦しくなってでもお姉さんの援助をしてあげた。偉いですね」なんて反応をするけれど、三浦貴大はそれにも警鐘を鳴らす。
たとえ親族であっても、自分に援助する余裕がないのなら、援助してはいけない。彼女は援助することで自分を苦しめただけでなく、お姉さんが生活保護を受けたりそれなりの福祉サービスを受ける権利を失わせた。援助したことで自分もお姉さんも二人とも苦しさにあえぐことになった。(だから三浦貴大は趣里に、生活保護を申請した父親への援助可否についての質問に対し、「親を捨てろ」と言います)
貧困は決して個人の自己責任に帰していい問題じゃない。社会の問題なんだ。無理して援助したことを美談にしてもいけないし、援助できず家族を捨てる人間に対して個人攻撃をしてもいけない。
三浦貴大の、つまりは原作者の主張は射手距離がとても長い。己の不明を恥じながらも、こういう視点がもっと社会に広まめなきゃ、とも思いました。
このあとの4話から最終6話にかけては、特に興味深いエピソードはありませんでしたが、そういえば……
もう20年以上前になりますが、長谷川和彦監督に自作シナリオを読んでもらって話をしたとき、選挙の話になって、
「え、君、選挙行くの?」
「行きますよ」
「俺、一回も行ったことねえわ。選挙じゃ世の中は変わらないよ」
と言ってました。確かにその通りかも。長谷川さんは「もっと怒っていいんだよ」とも言ってました。連合赤軍の映画化をずっと目論んでいるから、そのときの私は暴力革命みたいなのを夢想しているのかな、と思っていたんですが、この『東京貧困女子。』を見てわかりました。
長谷川監督が言っていた「怒る」というのは「無知蒙昧な社会」に対して怒るということなんだな、と。
それは政治家や官僚に対してということもあるかだろうし、ネットに「部活やめろ」とか「美談ですね」などと無責任な感想を書き綴る大衆に対しても怒らなくちゃいけないということなんだろう、と。
久々に映像化作品を見て、原作を読みたくなりました。いい作品でした。
『東京貧困女子。 ‐貧困なんて他人事だと思ってた‐』(2023、全6回)
原作:中村淳彦
脚本:高羽彩
出演:趣里、三浦貴大、東風万智子、霧島れいか、宮澤エマ
私も趣里と一緒だった
東洋経済オンラインの記者が書いたものが原作らしく、多くの貧困女子に取材した経験が活きているのか、独自の視点に驚かされました。
まず、第1話の貧困女子は、大学生。
父親がリストラされ、両親はともに非正規。学費は奨学金という名の借金で、その返済や、医学部のため学費以外にも多額のお金がかかる。そのうえテニスが大好きで部活をやっており、それにもお金がかかる。空いた時間は全部バイトを入れているがそれでも月に3万は足りない。そこで風俗に手を出した、と。
ほとんどの人は「部活をやめたらいいんじゃないの?」と思いますよね。主役の趣里も私も同じ意見でした。
しかし、原作者をモデルにしたキャラと思しきフリー記者の三浦貴大は「浅はかだ」と相手にしません。
え、何で? でも最後には納得させてくれます。
親がリストラされたのは彼女のせいか?
奨学金が体のいい学生ローンになっているのは彼女のせいか?
医学部がそもそも裕福な家庭の子どもしか相手にしていない仕組みになっているのは彼女のせいか?
三浦貴大は趣里を問いつめます。そして畳みかけます。
しんどい生活の中で、せめて大好きなテニスを楽しみたいという彼女の願いを捨てろとおまえは言うのか。
取材した学生にもう一度会った趣里は己の浅はかさ謝罪しますが、彼女にこう言われます。
「私、普通でいたかっただけです。それがそんなにいけないことですか?」
親を捨てろ
第3話の霧島れいか。
結婚してからも、離婚したあともそれなりに収入のある裕福な生活をしてきたけれど、姉が統合失調症にかかってしまい、自分しか援助してあげられる人間がいなかったからと、援助を始めたら生活が途端に苦しくなったと。
世間は「自分が苦しくなってでもお姉さんの援助をしてあげた。偉いですね」なんて反応をするけれど、三浦貴大はそれにも警鐘を鳴らす。
たとえ親族であっても、自分に援助する余裕がないのなら、援助してはいけない。彼女は援助することで自分を苦しめただけでなく、お姉さんが生活保護を受けたりそれなりの福祉サービスを受ける権利を失わせた。援助したことで自分もお姉さんも二人とも苦しさにあえぐことになった。(だから三浦貴大は趣里に、生活保護を申請した父親への援助可否についての質問に対し、「親を捨てろ」と言います)
貧困は決して個人の自己責任に帰していい問題じゃない。社会の問題なんだ。無理して援助したことを美談にしてもいけないし、援助できず家族を捨てる人間に対して個人攻撃をしてもいけない。
三浦貴大の、つまりは原作者の主張は射手距離がとても長い。己の不明を恥じながらも、こういう視点がもっと社会に広まめなきゃ、とも思いました。
このあとの4話から最終6話にかけては、特に興味深いエピソードはありませんでしたが、そういえば……
もう20年以上前になりますが、長谷川和彦監督に自作シナリオを読んでもらって話をしたとき、選挙の話になって、
「え、君、選挙行くの?」
「行きますよ」
「俺、一回も行ったことねえわ。選挙じゃ世の中は変わらないよ」
と言ってました。確かにその通りかも。長谷川さんは「もっと怒っていいんだよ」とも言ってました。連合赤軍の映画化をずっと目論んでいるから、そのときの私は暴力革命みたいなのを夢想しているのかな、と思っていたんですが、この『東京貧困女子。』を見てわかりました。
長谷川監督が言っていた「怒る」というのは「無知蒙昧な社会」に対して怒るということなんだな、と。
それは政治家や官僚に対してということもあるかだろうし、ネットに「部活やめろ」とか「美談ですね」などと無責任な感想を書き綴る大衆に対しても怒らなくちゃいけないということなんだろう、と。
久々に映像化作品を見て、原作を読みたくなりました。いい作品でした。
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