芥川賞作家・又吉直樹の随想集『月と散文』を読んで、なかなか感動したので筆を執りました。実は又吉の本は芥川賞を取った『火花』以来、まだ二冊目です。
(装画はあの松本大洋)
全部で66編のエッセイが収められていますが、特に印象に残った3編を挙げます。
「アメリカ支部」
相方の綾部のこと。ニューヨークに5年住んでいよいよ夢であるハリウッド進出を期してロサンゼルスへ引っ越す頃のことが書かれている。又吉は綾部のすごさを綴る。
「変わり者が多くいる芸人の世界でも、綾部祐二の存在は群を抜いている。そろそろピースを結成して二十年がたつ。私はとんでもない怪物と長い道のりを歩んできたのかもしれない。文化も言語も異なる環境で新しい目標に挑戦することがいかに大変なことかは想像するだけで怖くなる。日本支部もしっかりしなくてはと改めて思った」
「日本支部」とは何だと一瞬思ったが、綾部がアメリカにいるから又吉は日本支部なわけか。「支部」ってところがいいよね。相方のほうが本部なんやね。と思ったら、この文章のタイトルは「アメリカ支部」なのであった。
じゃあ本部ってどこなの? 吉本興業本店のある大阪だろうか。私としては「アメリカ本店」にしてほしかったな。勝手な意見ですが。
「想い出が映るんだよ」
マクドナルド愛を綴った又吉は、最後のほうでこう述べる。
「一番好きなのは、半年間シンプルなハンバーガーを食べ続けて、チーズバーガーというものをいったん忘れてからのチーズバーガーである。そうすると、初めてチーズバーガーを食べたときの衝撃が蘇るのだ。チーズ一枚でここまでいけるのかと感動できる。普通に食べるのではなく、チーズバーガーの存在を忘れて、出会い直すというのが肝心である」
この文章を読んで中島らもを思い出した人は多いんじゃないだろうか。あまりのも小さいことへの偏愛というか、作家ならどうでもいいことへの異常な愛情を綴らなきゃ作家じゃないよね、というあの独特の感じ。
「チーズバーガーというものをいったん忘れてからのチーズバーガーである」という言い方が「らも節」なのである。らも好きにはわかってもらえると信じている。しかも、
「普通に食べるのではなく~出会い直すというのが肝心である」
と、いちいち注釈を最後に付け足すのも中島らもに激似している。
ちなみに、文体はらも節だが、文意はまさに私が日頃していることである。つまり、「いったん忘れてからのチーズバーガー」をよく食べているということだ。
「よく」といっても、脂肪肝なので脂っこいものはあまり食べちゃダメなので、マクドナルドでコーヒーを飲むことはあってもハンバーガーはあまり食べない。そもそもハンバーグがさして好きじゃないのでハンバーガーもさして、といった感じ。でも、いや、だからなのか、半年に一回くらいの「いったん忘れてからのチーズバーガー」は異常なまでにうまいのである。
この文章を読んで中島らもを想起しない人も、「いったん忘れてからのチーズバーガー」のうまさには同意してくれると思うが、どうか。
「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」
私は又吉直樹という人間が好きである。作家とか芸人とかいう以前に人間として好きである。
何というか、栄光を勝ち取っているのに調子に乗らず謙虚さを失わず、しゃべるときはいつでもボソボソ声で、いるのかいないのかわからないようなところが好きである。
よく知る人物の言では、「かなりの負けず嫌い」で「頑固一徹ですぐ怒る」らしいが、それぐらいは誰でもだろう。あの「自分はまだまだ何者でもないオーラ」(変な言葉だが)を出しているところが好き。
さて、「あの頃には本を愛せなくなってしまった」の話である。
10代、20代の頃の又吉にとって、古書店は特別な場所だった。一日に何軒も古書店をはしごして、どの町のどの店のどの棚にどういう本があるか、誰に頼まれたわけでもないのに把握していたとか。そして、店に入らずとも、外観や外のワゴンにおいてある本を見れば、自分が欲しい本を置いてある店かどうかを直感で判断できるようになったという。
私もそこまでではないけど、結構古書店は好きだし、外のワゴンを見れば自分に合った店かどうかがわかるというのは、それこそわかるなぁ。
そして、次の文章が私はたまらなく好きなのです。
「本に裏切られたことがない僕にとって、本のことを嫌いになる理由などなかった。こんなにも優しい友達は僕にはいなかった。本に書かれていることを読みながら自分勝手に何かを感じてもいいし、どれだけ僕が頭の中で長い感想を述べても本はずっと待ってくれた。再読して感想を覆したとしても、本は僕を咎めたりしなかった」
本を擬人化せずにはいられない又吉の本への愛情と感謝の気持ちがビンビン伝わってきて、何度も読み返しました。
しかし、そんな本が大好き、本屋大好きな又吉が、本屋へ行くのが怖くなったという。小説を書くようになってからだという。文学者が露骨に「芸人が書いた小説」と軽蔑するように言うのを聞いて。(他にも「芸人が芸事以外のことをする時代」みたいな表現も大嫌いだそうな。そりゃそうだよね)
芸人よりも作家のほうが上である、職業には貴賤というものがあるのだよ、と言われた気がしたらしい。
作家はみんな「職業に貴賎なし」「差別は絶対にダメ」という理想を掲げているという「幻想」を抱いていた又吉を、文学者にも排他主義者が少なからずいるという現実が襲った。
しかし、妙です。そういう理由で文壇に幻滅を覚えたのならよくわかる。でも、なぜ本屋が怖くなったのだろう?
あ! と思い当たった。
私は昔アホな子どもで、各家庭に明石家さんまやビートたけしがいると思っていたのだ。
どういうことかというと、各家庭のテレビには同じ時間にさんまやたけしが登場して同じことをしゃべるじゃないですか。私は電波が飛んできているということを知らず、各家庭のテレビの中に小さなさんまや小さなたけしが棲んでいると思い込んでいたのです。
又吉も同様なんでしょう。本屋の一冊一冊の本に、その本の小さな作者が棲んでいると思ってるんですよ。だから観念としてではなく、肌感覚で本屋が怖いのだと思う。これはたぶん当たっていると思うが、どうか。
私も少しは知恵がついて上記のような愚かな考えは捨ててしまったが、又吉はいまでも童心を抱いているのだと思う。これが彼我の差か、と少し愕然となってしまった。
他に、国宝破壊師豪蔵鬼龍虎の話が面白かった。とにかく笑った。笑いすぎて特に感想はありません。
素敵な本をありがとう。
(装画はあの松本大洋)
全部で66編のエッセイが収められていますが、特に印象に残った3編を挙げます。
「アメリカ支部」
相方の綾部のこと。ニューヨークに5年住んでいよいよ夢であるハリウッド進出を期してロサンゼルスへ引っ越す頃のことが書かれている。又吉は綾部のすごさを綴る。
「変わり者が多くいる芸人の世界でも、綾部祐二の存在は群を抜いている。そろそろピースを結成して二十年がたつ。私はとんでもない怪物と長い道のりを歩んできたのかもしれない。文化も言語も異なる環境で新しい目標に挑戦することがいかに大変なことかは想像するだけで怖くなる。日本支部もしっかりしなくてはと改めて思った」
「日本支部」とは何だと一瞬思ったが、綾部がアメリカにいるから又吉は日本支部なわけか。「支部」ってところがいいよね。相方のほうが本部なんやね。と思ったら、この文章のタイトルは「アメリカ支部」なのであった。
じゃあ本部ってどこなの? 吉本興業本店のある大阪だろうか。私としては「アメリカ本店」にしてほしかったな。勝手な意見ですが。
「想い出が映るんだよ」
マクドナルド愛を綴った又吉は、最後のほうでこう述べる。
「一番好きなのは、半年間シンプルなハンバーガーを食べ続けて、チーズバーガーというものをいったん忘れてからのチーズバーガーである。そうすると、初めてチーズバーガーを食べたときの衝撃が蘇るのだ。チーズ一枚でここまでいけるのかと感動できる。普通に食べるのではなく、チーズバーガーの存在を忘れて、出会い直すというのが肝心である」
この文章を読んで中島らもを思い出した人は多いんじゃないだろうか。あまりのも小さいことへの偏愛というか、作家ならどうでもいいことへの異常な愛情を綴らなきゃ作家じゃないよね、というあの独特の感じ。
「チーズバーガーというものをいったん忘れてからのチーズバーガーである」という言い方が「らも節」なのである。らも好きにはわかってもらえると信じている。しかも、
「普通に食べるのではなく~出会い直すというのが肝心である」
と、いちいち注釈を最後に付け足すのも中島らもに激似している。
ちなみに、文体はらも節だが、文意はまさに私が日頃していることである。つまり、「いったん忘れてからのチーズバーガー」をよく食べているということだ。
「よく」といっても、脂肪肝なので脂っこいものはあまり食べちゃダメなので、マクドナルドでコーヒーを飲むことはあってもハンバーガーはあまり食べない。そもそもハンバーグがさして好きじゃないのでハンバーガーもさして、といった感じ。でも、いや、だからなのか、半年に一回くらいの「いったん忘れてからのチーズバーガー」は異常なまでにうまいのである。
この文章を読んで中島らもを想起しない人も、「いったん忘れてからのチーズバーガー」のうまさには同意してくれると思うが、どうか。
「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」
私は又吉直樹という人間が好きである。作家とか芸人とかいう以前に人間として好きである。
何というか、栄光を勝ち取っているのに調子に乗らず謙虚さを失わず、しゃべるときはいつでもボソボソ声で、いるのかいないのかわからないようなところが好きである。
よく知る人物の言では、「かなりの負けず嫌い」で「頑固一徹ですぐ怒る」らしいが、それぐらいは誰でもだろう。あの「自分はまだまだ何者でもないオーラ」(変な言葉だが)を出しているところが好き。
さて、「あの頃には本を愛せなくなってしまった」の話である。
10代、20代の頃の又吉にとって、古書店は特別な場所だった。一日に何軒も古書店をはしごして、どの町のどの店のどの棚にどういう本があるか、誰に頼まれたわけでもないのに把握していたとか。そして、店に入らずとも、外観や外のワゴンにおいてある本を見れば、自分が欲しい本を置いてある店かどうかを直感で判断できるようになったという。
私もそこまでではないけど、結構古書店は好きだし、外のワゴンを見れば自分に合った店かどうかがわかるというのは、それこそわかるなぁ。
そして、次の文章が私はたまらなく好きなのです。
「本に裏切られたことがない僕にとって、本のことを嫌いになる理由などなかった。こんなにも優しい友達は僕にはいなかった。本に書かれていることを読みながら自分勝手に何かを感じてもいいし、どれだけ僕が頭の中で長い感想を述べても本はずっと待ってくれた。再読して感想を覆したとしても、本は僕を咎めたりしなかった」
本を擬人化せずにはいられない又吉の本への愛情と感謝の気持ちがビンビン伝わってきて、何度も読み返しました。
しかし、そんな本が大好き、本屋大好きな又吉が、本屋へ行くのが怖くなったという。小説を書くようになってからだという。文学者が露骨に「芸人が書いた小説」と軽蔑するように言うのを聞いて。(他にも「芸人が芸事以外のことをする時代」みたいな表現も大嫌いだそうな。そりゃそうだよね)
芸人よりも作家のほうが上である、職業には貴賤というものがあるのだよ、と言われた気がしたらしい。
作家はみんな「職業に貴賎なし」「差別は絶対にダメ」という理想を掲げているという「幻想」を抱いていた又吉を、文学者にも排他主義者が少なからずいるという現実が襲った。
しかし、妙です。そういう理由で文壇に幻滅を覚えたのならよくわかる。でも、なぜ本屋が怖くなったのだろう?
あ! と思い当たった。
私は昔アホな子どもで、各家庭に明石家さんまやビートたけしがいると思っていたのだ。
どういうことかというと、各家庭のテレビには同じ時間にさんまやたけしが登場して同じことをしゃべるじゃないですか。私は電波が飛んできているということを知らず、各家庭のテレビの中に小さなさんまや小さなたけしが棲んでいると思い込んでいたのです。
又吉も同様なんでしょう。本屋の一冊一冊の本に、その本の小さな作者が棲んでいると思ってるんですよ。だから観念としてではなく、肌感覚で本屋が怖いのだと思う。これはたぶん当たっていると思うが、どうか。
私も少しは知恵がついて上記のような愚かな考えは捨ててしまったが、又吉はいまでも童心を抱いているのだと思う。これが彼我の差か、と少し愕然となってしまった。
他に、国宝破壊師豪蔵鬼龍虎の話が面白かった。とにかく笑った。笑いすぎて特に感想はありません。
素敵な本をありがとう。
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