『A』(1998、日本)

監督:森達也
撮影・編集:森達也&安岡卓治
『A2』(2001、日本)

監督:森達也
撮影・編集:森達也&安岡卓治
地下鉄サリン事件のあとにオウム真理教の内部に入って撮影したドキュメンタリーで、広報部長の上祐史浩が逮捕されて不在だったため、副部長の荒木浩を追ったのが一作目の『A』。『A2』でも冒頭とラストでは荒木を追うし、出所してきた上祐を捉える場面も後半あるものの(動いて喋っている上祐を久しぶりに見た)『A2』ではほとんど一般信者を追っています。
生来、正義を振りかざす人が嫌いなので、『A』のマスコミや警察の言うことがいちいち癇に障った。特に信者の一人を押し倒した公安警察官が痛くもない脛をさすって「公務執行妨害だ!」と叫び、ほんとに逮捕されてしまうシーン。冤罪ってこうやって生まれるんだろな、という見本。
幸い、この映画の映像が証拠となって無事に釈放されるんですが、私はあの極悪集団・オウム真理教の信者が釈放されて快哉を叫ぶことになるとは思わなかった。何だかんだ言ってもあの頃は「麻原彰晃なんか裁判なしで死刑にしてしまえ!」と本気で思ってましたからね。

それから、地下鉄サリン事件に松本サリン、さらに坂本弁護士一家殺害事件など看過できない犯罪を犯した集団なので、最後のほうの森監督からの「社会で生きるからには、社会に向けてきちんと謝罪すべきですよ」という言葉にも大納得。
つまり、作り手は中立というか、どちらの側にも立っていない。だから、加害者でもなく当然被害者でもない荒木のナマの姿を捉えることができたのでしょう。
荒木は別のシーンで、「ご両親を心配させるな」みたいな森監督の言葉にこたえる形で、「僕なりに両親から授かった命をまっとうしようと真剣に考えています」みたいなことを言うのだけど、私はそこまで真剣に考えて生きてないなぁと恥ずかしくなった。「あ~おいしかった」「あ~さっぱりした」などという快不快の原則でしか生きていない気がする。反省。
つまりは、この映画は荒木や他の信者たちを加害者とか犯罪者ではなく「人間」として撮っているので、ときにかわいく見えたり、ときに、あ~屁理屈こねてるな、やっぱりオウムはオウムだね、と思ったり、一人の人間がいろんな光を乱反射させている、ということが言いたいのだ。
乱反射。「映画は、光に対する感受性の問題である」と蓮實重彦は言ったけれど、映画の光は乱反射されて初めて「光」と言えるんじゃないかしら。なぁんてことを思いました。

『A2』では、もっと事情は複雑になって、「オウムは出ていけ!」と叫ぶ近隣住民もいたりするが、何とその近隣住民のなかには、信者たちと「友達付き合い」している人たちもいるのである。
信者に『密教の世界』なんて本を貸して般若心経について講釈を垂れたりね。「オウムの教えだけじゃ偏ってるからな」なんて言って。
逆にお返しとして、オウムの教えが書かれた本をもらったりするのである。マジで!? 嘘じゃないの!? と思ったけど、ドキュメンタリーなんだから嘘のわけがない。
立ち退きの日には涙をためて「いつまでも元気でね。もっと勉強して自分の道を邁進してね」なんて言ったりする。道を邁進した結果が数々の事件だったはずなのに。罪を憎んで人を憎まずという境地か。
麻原の娘アーチャリーも立ち退きの日を迎え、近くの交番というか警察の見張り小屋みたいなところへ挨拶に行く。アーチャリーも大手マスコミの手によって事実と異なる報道がなされていたようで、それは実像を知る警察官もよくわかっており、森監督とこんなやりとりをする。
森達也「何ででしょうね」
警察官「マスコミじゃないですか?」
森達也「警察もじゃないですか?」
警察官「何でですか。それはだめですよ」
と言って、アーチャリーも含めてみんなで大爆笑となるのだけど、字面だけ追ったら喧嘩になりそうなやりとりだけど、実に和気藹々としていて、撮影対象と本当の意味での信頼関係が築けているからなんだろな、と思わせる名シーンでした。
「人間」という複雑で不条理な生き物。この2本の映画は「オウム真理教」という特定の集団を追うことで、人間全般という心理に到達していると思う。
こういう映画が必要なのだ。そのために「表現の自由」が必要なのだ、と改めて思う。「オウムの映画なんて撮ったらだめだ」なんて言ってはいけないのである。

最後に、謝罪しに来たのか何しに来たのかさっぱりわからない代表代行の女性に対し、毅然とした態度で「もっと腹くくって来なきゃ」と説教する、松本サリン事件の被害者・河野義行さんはさすがだなぁと思った。
こういう人が政治家になってくれればいいのに。

監督:森達也
撮影・編集:森達也&安岡卓治
『A2』(2001、日本)

監督:森達也
撮影・編集:森達也&安岡卓治
地下鉄サリン事件のあとにオウム真理教の内部に入って撮影したドキュメンタリーで、広報部長の上祐史浩が逮捕されて不在だったため、副部長の荒木浩を追ったのが一作目の『A』。『A2』でも冒頭とラストでは荒木を追うし、出所してきた上祐を捉える場面も後半あるものの(動いて喋っている上祐を久しぶりに見た)『A2』ではほとんど一般信者を追っています。
生来、正義を振りかざす人が嫌いなので、『A』のマスコミや警察の言うことがいちいち癇に障った。特に信者の一人を押し倒した公安警察官が痛くもない脛をさすって「公務執行妨害だ!」と叫び、ほんとに逮捕されてしまうシーン。冤罪ってこうやって生まれるんだろな、という見本。
幸い、この映画の映像が証拠となって無事に釈放されるんですが、私はあの極悪集団・オウム真理教の信者が釈放されて快哉を叫ぶことになるとは思わなかった。何だかんだ言ってもあの頃は「麻原彰晃なんか裁判なしで死刑にしてしまえ!」と本気で思ってましたからね。

それから、地下鉄サリン事件に松本サリン、さらに坂本弁護士一家殺害事件など看過できない犯罪を犯した集団なので、最後のほうの森監督からの「社会で生きるからには、社会に向けてきちんと謝罪すべきですよ」という言葉にも大納得。
つまり、作り手は中立というか、どちらの側にも立っていない。だから、加害者でもなく当然被害者でもない荒木のナマの姿を捉えることができたのでしょう。
荒木は別のシーンで、「ご両親を心配させるな」みたいな森監督の言葉にこたえる形で、「僕なりに両親から授かった命をまっとうしようと真剣に考えています」みたいなことを言うのだけど、私はそこまで真剣に考えて生きてないなぁと恥ずかしくなった。「あ~おいしかった」「あ~さっぱりした」などという快不快の原則でしか生きていない気がする。反省。
つまりは、この映画は荒木や他の信者たちを加害者とか犯罪者ではなく「人間」として撮っているので、ときにかわいく見えたり、ときに、あ~屁理屈こねてるな、やっぱりオウムはオウムだね、と思ったり、一人の人間がいろんな光を乱反射させている、ということが言いたいのだ。
乱反射。「映画は、光に対する感受性の問題である」と蓮實重彦は言ったけれど、映画の光は乱反射されて初めて「光」と言えるんじゃないかしら。なぁんてことを思いました。

『A2』では、もっと事情は複雑になって、「オウムは出ていけ!」と叫ぶ近隣住民もいたりするが、何とその近隣住民のなかには、信者たちと「友達付き合い」している人たちもいるのである。
信者に『密教の世界』なんて本を貸して般若心経について講釈を垂れたりね。「オウムの教えだけじゃ偏ってるからな」なんて言って。
逆にお返しとして、オウムの教えが書かれた本をもらったりするのである。マジで!? 嘘じゃないの!? と思ったけど、ドキュメンタリーなんだから嘘のわけがない。
立ち退きの日には涙をためて「いつまでも元気でね。もっと勉強して自分の道を邁進してね」なんて言ったりする。道を邁進した結果が数々の事件だったはずなのに。罪を憎んで人を憎まずという境地か。
麻原の娘アーチャリーも立ち退きの日を迎え、近くの交番というか警察の見張り小屋みたいなところへ挨拶に行く。アーチャリーも大手マスコミの手によって事実と異なる報道がなされていたようで、それは実像を知る警察官もよくわかっており、森監督とこんなやりとりをする。
森達也「何ででしょうね」
警察官「マスコミじゃないですか?」
森達也「警察もじゃないですか?」
警察官「何でですか。それはだめですよ」
と言って、アーチャリーも含めてみんなで大爆笑となるのだけど、字面だけ追ったら喧嘩になりそうなやりとりだけど、実に和気藹々としていて、撮影対象と本当の意味での信頼関係が築けているからなんだろな、と思わせる名シーンでした。
「人間」という複雑で不条理な生き物。この2本の映画は「オウム真理教」という特定の集団を追うことで、人間全般という心理に到達していると思う。
こういう映画が必要なのだ。そのために「表現の自由」が必要なのだ、と改めて思う。「オウムの映画なんて撮ったらだめだ」なんて言ってはいけないのである。

最後に、謝罪しに来たのか何しに来たのかさっぱりわからない代表代行の女性に対し、毅然とした態度で「もっと腹くくって来なきゃ」と説教する、松本サリン事件の被害者・河野義行さんはさすがだなぁと思った。
こういう人が政治家になってくれればいいのに。

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