こいしゆうかというマンガ家さんと新潮社校閲部がタッグを組んだマンガ『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』(「ココノエさん」ではなく「クジュウさん」)をとても面白く読みました。(以下ネタバレあり)

「くらべて、けみして」とは、「校べて、閲して」つまり「校閲」。
数年前のテレビドラマ『校閲ガール 河野悦子』で、その仕事の特殊さは知っていたつもりでしたが、この「くらべて、けみして』を読んでさらにその思いを強くしました。
『校閲ガール』では石原さとみの先輩社員が「内容を読んではいけない」と言っていて、本作の主人公、社歴10年の九重さんも同じことを入社してすぐの後輩社員・瑞垣さんに諭すように言います。
矛盾を矛盾のままに

「夢中になって読んじゃダメ。言葉そのものに向き合うのよ。作品の世界に入り込むような読み方は校閲者としてはやっちゃいけないことね」
私はこの「内容を読まずに読む」というのがいまだによくわからないんですよね。そりゃ誤字脱字だけを見つけるだけならそれも可能でしょうが、「昼日中に逃げるんですか。夜のほうがよくないですか」と著者に確認を取るような場合は、それなりに内容も読んでないとわからないと思うんですが……?
それはいまは措くとして、中盤で面白い人物が登場します。
レジェンド校閲部員の矢彦さんという男が出てきて、校閲の何たるかを説くんですが、あるとき、自分の原稿を「完成原稿」と豪語してほとんど直すところがなかったという江藤淳の原稿を読んで、何となく違和感があり、神田の古書店を何軒も回って古地図を見つけ、それを江藤淳に送ったところ、力強い文章になってゲラが返ってきたとか。
というわけで、伝説の校閲部員の矢彦さんなんですが、矢彦さんは九重さんと違ってこう言います。
「いい校閲とは何か。僕は、作品に対して感動する気持ちをもっていること。だからこそ作品をもっと良いものにするために協力し、ときに戦う。それが校閲のあり方じゃないかと」
「だからね、作品にのめりこむくらいがちょうどいいと思っているよ。九重さんももっと自信をもってのめりこんでいいんだよ」
「読んではいけない」⇔「のめりこんで読んだほうがいい」
まったく違う教えが出てきました。
どの職場でもありますよね。先輩の言うことが一人一人違うというアレ。しかも、矢彦さんによれば「九重さんは自信がない」らしい。なぜか。
ここで大事なのはどちらかだけ取るとか、いいとこ取りをするとかの、けしからんことが一切描かれないことですね。新入社員の瑞垣さんももちろんですが、矢彦さんからすればまだまだひよっ子の九重さんも、二つの異なる価値観のはざまで引き裂かれそうになります。
著者は「答え」を出しません。「九重さんは自信がない」のはなぜか、その答えも言いません。そんなものはないからです。のめりこんで読むけど、九重さんの言うようにできるだけ「客観的になって」、内容を読まないように引いてみる。そこに校閲の神髄があるんじゃないでしょうか。やってことないくせに、めちゃ偉そうに言ってしまいすみません。
しかし、大事なのは、作者や『くらべて、けみして』という作品そのものが、九重さんにも矢彦さんにも肩入れしてないこと。矛盾を矛盾のまま引き受けることが大事というのは、どんなことにも共通していることでしょう。
なぜ九重さんが主人公なのか

矢彦さんの一言でおそらく一番悩むのは、九重さんよりも瑞垣さんですよね? 彼女が一番右も左もわからないのだから、九重さんとは真逆のことを言う矢彦さんには大混乱じゃないかと思います。
ですが、瑞垣さんの葛藤が描かれることはほとんどありません。上述のように、九重さんの心中の葛藤が深く描かれることもありません。
それから、後半に瑞垣さんから誤植を指摘される九重さんですが、ここでは新米社員に誤りを指摘されてショックを受ける九重さんよりも、九重さんを責めたような格好になった瑞垣さんのショックが大きく扱われます。
なぜか大きく心が揺れているはずの九重さんが前面に出てくるべきところで、「背景」と化しています。主人公なのに。
しかしながら、九重さんの心中の葛藤は読者は一番敏感に感じ取っているはずなのです。作者が力を入れて書かずともそのあたりは汲み取ってくれよ、という。
この「汲み取る」というのは、矢彦さんが言うように、「のめりこんで読」まないと無理なことですよね。
おそらく、これは作者が自分の作品の校閲者に向けたメッセージじゃないかと思います。
内容ばっかり読んでちゃ校閲できないだろうけど、やっぱりのめりこむだけの愛情をもってくれよ、だから大事な心中をほとんど書いてない九重さんを主人公にしているんだから、という。もっと行間を読んで! という作者の叫びのようにも聞こえます。
穿ちすぎですかね?

「くらべて、けみして」とは、「校べて、閲して」つまり「校閲」。
数年前のテレビドラマ『校閲ガール 河野悦子』で、その仕事の特殊さは知っていたつもりでしたが、この「くらべて、けみして』を読んでさらにその思いを強くしました。
『校閲ガール』では石原さとみの先輩社員が「内容を読んではいけない」と言っていて、本作の主人公、社歴10年の九重さんも同じことを入社してすぐの後輩社員・瑞垣さんに諭すように言います。
矛盾を矛盾のままに

「夢中になって読んじゃダメ。言葉そのものに向き合うのよ。作品の世界に入り込むような読み方は校閲者としてはやっちゃいけないことね」
私はこの「内容を読まずに読む」というのがいまだによくわからないんですよね。そりゃ誤字脱字だけを見つけるだけならそれも可能でしょうが、「昼日中に逃げるんですか。夜のほうがよくないですか」と著者に確認を取るような場合は、それなりに内容も読んでないとわからないと思うんですが……?
それはいまは措くとして、中盤で面白い人物が登場します。
レジェンド校閲部員の矢彦さんという男が出てきて、校閲の何たるかを説くんですが、あるとき、自分の原稿を「完成原稿」と豪語してほとんど直すところがなかったという江藤淳の原稿を読んで、何となく違和感があり、神田の古書店を何軒も回って古地図を見つけ、それを江藤淳に送ったところ、力強い文章になってゲラが返ってきたとか。
というわけで、伝説の校閲部員の矢彦さんなんですが、矢彦さんは九重さんと違ってこう言います。
「いい校閲とは何か。僕は、作品に対して感動する気持ちをもっていること。だからこそ作品をもっと良いものにするために協力し、ときに戦う。それが校閲のあり方じゃないかと」
「だからね、作品にのめりこむくらいがちょうどいいと思っているよ。九重さんももっと自信をもってのめりこんでいいんだよ」
「読んではいけない」⇔「のめりこんで読んだほうがいい」
まったく違う教えが出てきました。
どの職場でもありますよね。先輩の言うことが一人一人違うというアレ。しかも、矢彦さんによれば「九重さんは自信がない」らしい。なぜか。
ここで大事なのはどちらかだけ取るとか、いいとこ取りをするとかの、けしからんことが一切描かれないことですね。新入社員の瑞垣さんももちろんですが、矢彦さんからすればまだまだひよっ子の九重さんも、二つの異なる価値観のはざまで引き裂かれそうになります。
著者は「答え」を出しません。「九重さんは自信がない」のはなぜか、その答えも言いません。そんなものはないからです。のめりこんで読むけど、九重さんの言うようにできるだけ「客観的になって」、内容を読まないように引いてみる。そこに校閲の神髄があるんじゃないでしょうか。やってことないくせに、めちゃ偉そうに言ってしまいすみません。
しかし、大事なのは、作者や『くらべて、けみして』という作品そのものが、九重さんにも矢彦さんにも肩入れしてないこと。矛盾を矛盾のまま引き受けることが大事というのは、どんなことにも共通していることでしょう。
なぜ九重さんが主人公なのか

矢彦さんの一言でおそらく一番悩むのは、九重さんよりも瑞垣さんですよね? 彼女が一番右も左もわからないのだから、九重さんとは真逆のことを言う矢彦さんには大混乱じゃないかと思います。
ですが、瑞垣さんの葛藤が描かれることはほとんどありません。上述のように、九重さんの心中の葛藤が深く描かれることもありません。
それから、後半に瑞垣さんから誤植を指摘される九重さんですが、ここでは新米社員に誤りを指摘されてショックを受ける九重さんよりも、九重さんを責めたような格好になった瑞垣さんのショックが大きく扱われます。
なぜか大きく心が揺れているはずの九重さんが前面に出てくるべきところで、「背景」と化しています。主人公なのに。
しかしながら、九重さんの心中の葛藤は読者は一番敏感に感じ取っているはずなのです。作者が力を入れて書かずともそのあたりは汲み取ってくれよ、という。
この「汲み取る」というのは、矢彦さんが言うように、「のめりこんで読」まないと無理なことですよね。
おそらく、これは作者が自分の作品の校閲者に向けたメッセージじゃないかと思います。
内容ばっかり読んでちゃ校閲できないだろうけど、やっぱりのめりこむだけの愛情をもってくれよ、だから大事な心中をほとんど書いてない九重さんを主人公にしているんだから、という。もっと行間を読んで! という作者の叫びのようにも聞こえます。
穿ちすぎですかね?


コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。