デビッド・フィンチャーが撮ったネットフリックス映画『ザ・キラー』を見ました。いろいろ考えさせられましたね。(以下ネタバレあり)


『ザ・キラー』(2023、アメリカ)
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脚本:アンドリュー・ケビン・ウォーカー
監督:デビッド・フィンチャー
出演:マイケル・ファスベンダー、アーリス・ハワード、ティルダ・スウィントン


アンドリュー・ケビン・ウォーカーという名前が不安だったけど
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脚本家としてクレジットされているアンドリュー・ケビン・ウォーカーという名前が不安でした。だってあの悪名高い『セブン』を書いた人じゃないですか。

でも杞憂でしたね。圧巻のフィルムノワールとして屹立していました。これで『ファイト・クラブ』に続いて24年ぶりに「大好きなフィンチャー作品」が追加されました。(『マンク』は未見。ネットフリックに入ったので近いうちに見ます)

「ストイックな殺し屋が初めて仕事をしくじり、命を狙われる」

という物語はごくありふれたものですが、演出がいいですよね。撮影も編集もピタッとはまってる。2時間とはいわず4時間くらい見せてほしいと思ったほど。


生まれて初めて書いたシナリオ
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私が生まれて初めて書いたシナリオは、『最後の標的』と題した殺し屋が主人公のものでした。大和屋竺がこだわっていたあの殺し屋。

↑上の『ザ・キラー』のあらすじ↑をもう一度読んでください。

「ストイックな殺し屋」というのは「二重形容」ですよね? だって、殺し屋ってみんなストイックだから。って、殺し屋に会ったことないんですけどね。でもわかるじゃないですか。

みんなマイケル・ファスベンダーみたいに日々のルーティーンを確実にこなし、体を鍛える。ことによったら、殺し屋って毎日、伝説の雀鬼・桜井章一みたいな生活をしているのかもしれない。

負ければ殺されるというプレッシャーのなか中で20年間負けなかった桜井章一は、試合前の一週間は飲まず食わずだったようです。そうすると五感が研ぎ澄まされ、ぎりぎりの勝負に勝てる、と。

桜井章一はまだ試合がいつと決まってますが、殺し屋の場合は殺しの仕事以外にも常に狙われている可能性があり、常に桜井章一と同じように五感を研ぎ澄ませていなければいけない。1年365日、24時間ずっと……。


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だから、こんな牧歌的な雰囲気の中で、しかも体に悪いハンバーガーを頬張るなんてありえない! と最初は思ったものの、妙なリアリティがありました。もしかしたらこういうものなのかもしれないと。

想像を絶するプレッシャーのなかで、肩の力を抜けるほどの余裕。それがないと殺し屋なんか務まらないのかも。

そこで大事になるのが、先に少し触れた「ルーティーン」だと思うんです。

思想家の内田樹先生は、武道家でもあるので、ルーティーンの大切さを何度も説いています。

「昔の武士は用事のないところへは絶対に出かけなかった。いつもと同じ時間に起き、同じ道を通って出かけ、同じ時間に食べて寝る。判で押したような生活をしていると、周りのほんの少しの違いが肌で感知できる」

哲学者のカントもいつも同じ時間に散歩し、近所の人たちは、カントが家の前を通ると時計の針を直したという例も内田樹先生の大好きなエピソードです。

判で押したような生活をしていないと微細な変化に気づけない。だから『ザ・キラー』のマイケル・ファスベンダーも、そういう時計の針に半ば支配された生活をしている、それを楽しんでいる、というような描写があったらよかったなぁと思うのですが、殺し屋に惹かれるのは、私が似たような生活をしているからかな、と今回初めて思いました。


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普通の人が、「今日はちょっとあえて遠回りして帰ってみようか」とか「こっちのほうはあまり来たことないから」と、普段とは違うルートを通ったり店に立ち寄ったりということが私にはほとんどありません。

「殺し屋」と聞くと、すぐ「ストイック」という形容詞を思いつくように、判で押したような生活も同様にかなり禁欲的なことのようです。「いつもと違うことしてみたくないですか?」と聞かれることもあるけど、それは嫌なのです。

別にカントや武士みたいになりたいわけじゃない。殺し屋になりたいわけでもない。でも、彼らのような生活にあこがれるし、実際そうしている。

『ザ・キラー』のあらすじは、ごくごくありふれたものだと言いました。それでも人々が魅了されるのは、その「ありふれた物語」こそ、殺し屋映画の「ルーティーン」じゃないかと思うからです。

あとは微細な違いだけ。撮り方とか照明とか音楽とかね。ありふれた話だと否定してはいけません。物語ではなく微細な演出の違いに目を凝らさないと。

『ザ・キラー』という映画自体が「殺し屋」なのです。

だから脚本がアンドリュー・ケビン・ウォーカーでもよかったんですね。誰が書いても同じものになったはずだから。

この『ザ・キラー』は、脚本ではなく、監督が前面に出た本物の「殺し屋映画」と感じました。





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