「西の名越(康文)」と並び称される「東の春日」、つまり精神科医の春日武彦さんの新著『恐怖の正体』を興味深く読みました。


恐怖症

↑この画像↑が怖いとか気持ち悪いとか思う人は「集合体恐怖症」です。私もその一人。
私は実は集合体恐怖症の他に、「尖端恐怖症」と「閉所恐怖症」に悩まされています。閉所恐怖症と集合体恐怖症は幼少のころからだと思うけど、尖端恐怖症はつい最近です。
昔から精神科にかかっていますが、今年の初めに躁うつ病を発症してしまったんです。躁うつ病を発症すると、不安障害を併発しやすくなるらしく、恐怖症とはまさしく不安障害のひとつなのでね。でも、なぜ数多くの恐怖症のうち尖端恐怖症なのかは不明。
「実は尖端恐怖症の人々の一部は、自分が加害者になるのではないかという危惧も併せ持っているとされる」
ちょっと前まで自分がナイフやペン先のような尖ったものの被害に遭う恐怖ばかり夢想していましたが、つい最近、自分が加害者になる恐怖を味わうようになりました。腰を骨折した母の目に箸を突き刺す場面を夢想しておののくのです。これは本当に怖い。何か弱者をいじめてるようでね。
もしかしたら、「恐怖症」といいながら、実は「嗜虐趣味」を楽しんでるだけでは? とも思う。
実際、いまの私は母によって自由を奪われているので、もしかすると、目に尖ったものを突き刺すことで復讐しようとしているのではないか。春日先生はこう書く。
「恐怖症はしょせん『恐怖もどき』でしかない。が、そのような奇妙なものが結果的に人生をよりリアルに過ごせる場合もあるようなのだ。そこに人の心の妙味がある」
私の場合、嗜虐的な恐怖症がリアルな生活を可能にしているのかどうかはなはだ疑問だけれど、そのような恐怖症というか妄想がストレスを軽減してくれている側面は絶対あると思う。
長嶋一茂がまだ現役だったころパニック障害になったそうな。現役を続行すべきか引退すべきかで迷い、彼の場合はミスター・ジャイアンツの息子ということもあってかなりの葛藤だったとか。
「そうして、彼はパニックを伴う閉所恐怖症を発症した。そのため練習に行けなくなり、戦力外通告を受けて引退に追い込まれた」
この例などは、まさに自分の無意識では「引退すべきではないか」と思いながら「やはりもう少し頑張るべきか」と、真逆の考えに引き裂かれてしまい、何とか自己のアイデンティティを保つためにパニック障害を発症したのでしょう。
ゆえに、高所恐怖症とか閉所恐怖症とか、さまざまな恐怖症というのは、何かその人にとって必要なものなのだろう。躁うつ病の人間が不安障害を併発しやすいというのは、だから、躁うつ病の人間は恐怖症などの不安障害を必要としているということなのでしょう。それがなぜなのかはいまの医学ではわからないのだろうし、やはり「文学」を手掛かりにしないと解明されないのかなぁと思ったりもしました。
スティーブン・ショア



みなさんはこれらの写真を見てどう感じますか?
私などは「きれいな写真だな。好きではないけど」としか思わなかったんですが、これはスティーブン・ショアという有名な写真家の作品らしく、春日先生に言わせると「躁状態の人間が撮った写真になる」らしい。
「異様に解像度が高く、色も微妙に人工的な鮮やかさで、しかも画面の隅々までピントが合わせられていて曖昧な部分が一切ない。通常の人の目では、これほど鮮烈に風景を捉えることなど不可能である。端的に言ってしまうなら、過覚醒状態の人間の目に映った風景なのである。明るく明晰なのに、病んだ写真なのである」
うーん、確かに言われてみるとそうかもしれない。
私は躁状態のとき「過覚醒」と言われ、別のときには「過集中だね」とも言われた。何にでも集中しいすぎるきらいがあり、周りの声が聞こえなくなる。私に言わせれば世の人々はあまりに集中力がなさすぎるのだが、向こうに言わせると、私のほうが集中しすぎなのらしい。過ぎたるは猶及ばざるが如し。持病の脂肪肝は「過栄養」だし、私は何かと「過ぎたる」らしい。
過覚醒を避けるために睡眠薬を飲んだりもしているが、よく寝ないと最近は妄想に襲われるのだ。これはこれで恐ろしい。みんながみんな俺をバカにして笑っているという妄想が突然襲ってきて、しばらくまとわりつく。すべては過覚醒のなせる業。
だから、スティーブン・ショアという人ももっとよく眠れば「普通の写真」が撮れるのではないだろうか。しかしそうなってしまえば写真家としての名声はなくなってしまうが。やはり、作家は狂気から成るのか?
死の恐怖
やはり人が恐怖するといえば、「死」が最大でしょう。
「家族や身近な人間の死は、やはり私たちに攻撃を加える。虚を衝くかのように死にまつわる漆黒の想像力が喚起させられる。理念ではない死が、いきなり心を鷲掴みにする。恐怖が目を醒ます」
これは本当である。去年父が死んだのだけど、土くれに等しい状態になった彼を見下ろすと、まさに「いきなり心を鷲掴みにされた」としか言いようのないショックを受けた。ひどい人だったが、もう戻ってこない。その不可逆性にもおののいてしまう。いずれは自分もこうなるのかという、何ともむなしく、哀しい。そしてそれは誰しも同じだから救済がない。そちらのほうが怖い。
死の恐怖は誰しも抱くわけだけど、わざわざ新聞に投書して「死の恐怖を克服するにはどうしたらいいですか」といった類の不滅の質問に関して、春日先生はこう書く。
「質問者たちにおける一番の問題は、死が恐ろしいというところではない。死に対する恐ろしさをとりあえず脇に置くことができず、とにかくそれを克服しなければ何も始まらないといった優先順位のつけ方、その硬直した『こだわり』こそが変なのだ」
なるほどなぁ。これはいままでまったく気づかなかった。そして、死の恐怖の具体的な克服方法も授けてくれる。
「死の恐怖は根源的なものであると同時に、猫を飼い始めたり、生活リズムを整えたり、思ってもみなかった人から親切を受けたりしただけで、最重要案件であったはずの死の恐怖がいつの間にかどうでもよくなったりするところに、人間の面白さと『したたかさ』が見えてくる」
人生最後の恐怖
最後に、私が20年ほど前から憑りつかれている「人生最後の恐怖」を披露してこの記事を終わりにしたい。恐怖に魅入られているあなたは、この先を読まずにはいられないはずだ。
あなたは死んだ。いま、あなたの親族が葬式をしめやかに執り行っている最中である。生者たちとの最後の対面も終わり、棺桶には釘が打ちつけられ、霊柩車に乗せられる。斎場に着き、あなたの棺は焼き場へと運ばれ、所定の穴へ入れられる。
そのときである。あなたは息を吹き返した。出たい。もう一度人生を謳歌したい。やり残したことがたくさんある。それより何だこれは。ひどく息苦しい。あなたは激しく棺桶のふたを開けようと力ずくで叩きまくる。しかし、釘で打ち付けられた棺は開かない。開かない。開かない。そうするうちに炎で包まれ、あなたは生きたまま焼かれる。断末魔の叫びを上げても、あなたの声を聞き止める人は誰もいない……。
死んだあとに蘇生する人は一定数いるというし、その確率も各人同じようなものらしい。棺が簡単には開かない状態になり、炎で包まれる寸前に生き返る確率も似たようなものではないか。実際、上記のような感じで死んでいった人は人類史上たくさんいると思われる。(西洋や昔の日本なら土葬だから生き埋めですかね)
人生の最後に、何の咎もないのに生きたまま焼かれていく。これ以上の恐怖があろうか。私は閉所や尖端も怖いが、この「人生最後の恐怖」が一番怖い。
でも、この恐怖も「とりあえず脇に置いて」残りの人生を生きていくしかなさそうです。

恐怖と文学

この本では、「これは私の勝手な推測だが~~」とか「無責任な推測だが~~」「~~と信じている」といった言い回しがとても多い。単純な決めつけや考え方に対して、できるだけそれらを忌避しようとする態度を強く感じました。
そして、とてつもなく怖い体験をした人間がどうなるかについて、「発狂してオシマイというほど人間の精神は単純にはできていない」という春日さんは、やはり精神科医だけあって、人間の精神という複雑なものをできるだけ複雑なまま取り扱おうとしているように感じられました。
「恐怖は医学ではなく文学が扱うべき領域であるように思われる」
実際、この本では多くの文学作品の引用があります。ま、春日さんの本はいつでも小説やマンガの引用が多いのではありますが。
なぜ文学かといえば、それはやはり「時間」芸術だからじゃないですかね?
春日先生はゴキブリとバッタリ出遭ってしまったときの恐怖について書く。
「彼らは集合体として生きている。だから自分の代替はいくらでもいる。それはすなわち不老不死の様相を呈し、そんな死生不知かつ圧倒的な生命力を前にした私は自分が無力のカタマリでしかないことを思い知らされる。これが恐怖でなくて何であろう」
こういうことを1,2秒のうちに考えるわけで、完全に時間が引き延ばされていますね。引き延ばされた時間の中で、ゴキブリと対峙してしまったことを後悔したり、しまったと思ったりする。しかし、恐怖体験の渦中にいるよりも、それを追体験、つまり思い出しているときのほうがよっぽど怖いと春日さんは言う。
小説はたいてい過去形が書かれており、語り手が追体験する形で叙述されているから恐怖と相性がいいのかしら。なぁんてことを考えてしまいました。
恐怖症

↑この画像↑が怖いとか気持ち悪いとか思う人は「集合体恐怖症」です。私もその一人。
私は実は集合体恐怖症の他に、「尖端恐怖症」と「閉所恐怖症」に悩まされています。閉所恐怖症と集合体恐怖症は幼少のころからだと思うけど、尖端恐怖症はつい最近です。
昔から精神科にかかっていますが、今年の初めに躁うつ病を発症してしまったんです。躁うつ病を発症すると、不安障害を併発しやすくなるらしく、恐怖症とはまさしく不安障害のひとつなのでね。でも、なぜ数多くの恐怖症のうち尖端恐怖症なのかは不明。
「実は尖端恐怖症の人々の一部は、自分が加害者になるのではないかという危惧も併せ持っているとされる」
ちょっと前まで自分がナイフやペン先のような尖ったものの被害に遭う恐怖ばかり夢想していましたが、つい最近、自分が加害者になる恐怖を味わうようになりました。腰を骨折した母の目に箸を突き刺す場面を夢想しておののくのです。これは本当に怖い。何か弱者をいじめてるようでね。
もしかしたら、「恐怖症」といいながら、実は「嗜虐趣味」を楽しんでるだけでは? とも思う。
実際、いまの私は母によって自由を奪われているので、もしかすると、目に尖ったものを突き刺すことで復讐しようとしているのではないか。春日先生はこう書く。
「恐怖症はしょせん『恐怖もどき』でしかない。が、そのような奇妙なものが結果的に人生をよりリアルに過ごせる場合もあるようなのだ。そこに人の心の妙味がある」
私の場合、嗜虐的な恐怖症がリアルな生活を可能にしているのかどうかはなはだ疑問だけれど、そのような恐怖症というか妄想がストレスを軽減してくれている側面は絶対あると思う。
長嶋一茂がまだ現役だったころパニック障害になったそうな。現役を続行すべきか引退すべきかで迷い、彼の場合はミスター・ジャイアンツの息子ということもあってかなりの葛藤だったとか。
「そうして、彼はパニックを伴う閉所恐怖症を発症した。そのため練習に行けなくなり、戦力外通告を受けて引退に追い込まれた」
この例などは、まさに自分の無意識では「引退すべきではないか」と思いながら「やはりもう少し頑張るべきか」と、真逆の考えに引き裂かれてしまい、何とか自己のアイデンティティを保つためにパニック障害を発症したのでしょう。
ゆえに、高所恐怖症とか閉所恐怖症とか、さまざまな恐怖症というのは、何かその人にとって必要なものなのだろう。躁うつ病の人間が不安障害を併発しやすいというのは、だから、躁うつ病の人間は恐怖症などの不安障害を必要としているということなのでしょう。それがなぜなのかはいまの医学ではわからないのだろうし、やはり「文学」を手掛かりにしないと解明されないのかなぁと思ったりもしました。
スティーブン・ショア



みなさんはこれらの写真を見てどう感じますか?
私などは「きれいな写真だな。好きではないけど」としか思わなかったんですが、これはスティーブン・ショアという有名な写真家の作品らしく、春日先生に言わせると「躁状態の人間が撮った写真になる」らしい。
「異様に解像度が高く、色も微妙に人工的な鮮やかさで、しかも画面の隅々までピントが合わせられていて曖昧な部分が一切ない。通常の人の目では、これほど鮮烈に風景を捉えることなど不可能である。端的に言ってしまうなら、過覚醒状態の人間の目に映った風景なのである。明るく明晰なのに、病んだ写真なのである」
うーん、確かに言われてみるとそうかもしれない。
私は躁状態のとき「過覚醒」と言われ、別のときには「過集中だね」とも言われた。何にでも集中しいすぎるきらいがあり、周りの声が聞こえなくなる。私に言わせれば世の人々はあまりに集中力がなさすぎるのだが、向こうに言わせると、私のほうが集中しすぎなのらしい。過ぎたるは猶及ばざるが如し。持病の脂肪肝は「過栄養」だし、私は何かと「過ぎたる」らしい。
過覚醒を避けるために睡眠薬を飲んだりもしているが、よく寝ないと最近は妄想に襲われるのだ。これはこれで恐ろしい。みんながみんな俺をバカにして笑っているという妄想が突然襲ってきて、しばらくまとわりつく。すべては過覚醒のなせる業。
だから、スティーブン・ショアという人ももっとよく眠れば「普通の写真」が撮れるのではないだろうか。しかしそうなってしまえば写真家としての名声はなくなってしまうが。やはり、作家は狂気から成るのか?
死の恐怖
やはり人が恐怖するといえば、「死」が最大でしょう。
「家族や身近な人間の死は、やはり私たちに攻撃を加える。虚を衝くかのように死にまつわる漆黒の想像力が喚起させられる。理念ではない死が、いきなり心を鷲掴みにする。恐怖が目を醒ます」
これは本当である。去年父が死んだのだけど、土くれに等しい状態になった彼を見下ろすと、まさに「いきなり心を鷲掴みにされた」としか言いようのないショックを受けた。ひどい人だったが、もう戻ってこない。その不可逆性にもおののいてしまう。いずれは自分もこうなるのかという、何ともむなしく、哀しい。そしてそれは誰しも同じだから救済がない。そちらのほうが怖い。
死の恐怖は誰しも抱くわけだけど、わざわざ新聞に投書して「死の恐怖を克服するにはどうしたらいいですか」といった類の不滅の質問に関して、春日先生はこう書く。
「質問者たちにおける一番の問題は、死が恐ろしいというところではない。死に対する恐ろしさをとりあえず脇に置くことができず、とにかくそれを克服しなければ何も始まらないといった優先順位のつけ方、その硬直した『こだわり』こそが変なのだ」
なるほどなぁ。これはいままでまったく気づかなかった。そして、死の恐怖の具体的な克服方法も授けてくれる。
「死の恐怖は根源的なものであると同時に、猫を飼い始めたり、生活リズムを整えたり、思ってもみなかった人から親切を受けたりしただけで、最重要案件であったはずの死の恐怖がいつの間にかどうでもよくなったりするところに、人間の面白さと『したたかさ』が見えてくる」
人生最後の恐怖
最後に、私が20年ほど前から憑りつかれている「人生最後の恐怖」を披露してこの記事を終わりにしたい。恐怖に魅入られているあなたは、この先を読まずにはいられないはずだ。
あなたは死んだ。いま、あなたの親族が葬式をしめやかに執り行っている最中である。生者たちとの最後の対面も終わり、棺桶には釘が打ちつけられ、霊柩車に乗せられる。斎場に着き、あなたの棺は焼き場へと運ばれ、所定の穴へ入れられる。
そのときである。あなたは息を吹き返した。出たい。もう一度人生を謳歌したい。やり残したことがたくさんある。それより何だこれは。ひどく息苦しい。あなたは激しく棺桶のふたを開けようと力ずくで叩きまくる。しかし、釘で打ち付けられた棺は開かない。開かない。開かない。そうするうちに炎で包まれ、あなたは生きたまま焼かれる。断末魔の叫びを上げても、あなたの声を聞き止める人は誰もいない……。
死んだあとに蘇生する人は一定数いるというし、その確率も各人同じようなものらしい。棺が簡単には開かない状態になり、炎で包まれる寸前に生き返る確率も似たようなものではないか。実際、上記のような感じで死んでいった人は人類史上たくさんいると思われる。(西洋や昔の日本なら土葬だから生き埋めですかね)
人生の最後に、何の咎もないのに生きたまま焼かれていく。これ以上の恐怖があろうか。私は閉所や尖端も怖いが、この「人生最後の恐怖」が一番怖い。
でも、この恐怖も「とりあえず脇に置いて」残りの人生を生きていくしかなさそうです。

コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。