『桜島』『日の果て』などの梅崎春生の直木賞受賞作『ボロ家の春秋』を表題作とした中公文庫(講談社文芸文庫ではなく)に収録されている、小説作法に関するエッセイ4編を興味深く読みました。


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印象的なフレーズを抜き書きして、それにコメントする形で感想を記します。

「自分の内部の深淵、いや本当は深淵ではなく浅い水たまりに過ぎないとしても、それをしょっちゅうかき回し、どろどろに濁らせて、底が見えない状態に保っておく必要がある。底が見えなければ、それが深淵であるか浅い水たまりであるか、誰にもわかりゃしない。自分にすらわからない。自分にもわからない程度に混沌とさせておくべきである。その混沌たる水深が、いわば作家の見栄のよりどころである」

これはよくわかります。自分には作家の資格なんてないかもしれないが、それでも書きたいから自分の水たまり、これは「心」とか「頭脳」とかいう意味ですよね。そこに己すら測り知れない「なにものか」が溜まっているように見せかけること。

でも私の場合は、その深淵か水たまりかが「才能」なんだと思っていたけれど、梅崎春生はそれを「作家の見栄」だという。見栄にすぎないと。ここらへんの謙虚さが本物か偽物かの違いなんでしょうね。私は才能とばかり勘違いしていました。


「デーモン、自分の内部の水たまりに、そんな主が棲息しているかどうか、ひっかき回しても幸いにどろどろに濁っているので、自分にも判然としない。判然としないけれども、そうだと信じさえすれば、それは棲息しているのと同様である」

もし、その水たまりとやらが「才能」だとしたら、自分にすらそれがどれだけの量あるか判然としないので、たっぷりあると信じ込んでしまえば、傲慢になってしまう。

撮影所を辞めるとき、録音部の先輩に、「ホンを書いてやっていくって、その自信はどこから来るんや?」と聞かれ、「自信なんてありません」ときっぱり答えた。そこに嘘はなかったけれど、実際に書いていくときには「才能があると信じ込まなきゃ書けない」と気づいた。で、ある程度は書けるようになったけれど、その結果、謙虚さを忘れてしまい、そして筆を折る羽目に……。

水たまりを深淵だと信じ込むことは大事だが、それを「才能」ではなく「見栄」にすぎないという、かなり醒めた目をもっていないといけなかったのだと思いました。私は熱くなりすぎた。


「自分の水たまりに棲むものが竜であるか、あるいはドジョウであるかミジンコであるか、一生かかってもわからないことだ。そのわからないことのうえに文学者の意識なり生活なりが存在する」

生活……。

梅崎春生の作品は、小説にしろエッセイにしろ、金に関することがとても多い。金というか数字。何々という何枚の小説を何日で書いて原稿料が何円とか。金の貸し借りにまつわるお話も多い。

10年ほど前に独り暮らしをするようになって、「生活とは日々金の計算をすることだ」と悟ったけれど、もう40を超えていた。遅かった。人の生活を書く脚本において「生活とは何ぞや」ということがわかっていなかったのは致命的である。何もかもが遅すぎた。


「私は小説を書きながら、どうも自分は本当のことを書いていない、と感じるようになってきた。うそを書いている、でっち上げをやっている、その意識が私の筆をさらに重くした」

これは私はまったく思ったことがないですね。映画なんてしょせんは2時間のウソ話なんだから……と自分で自分をだましていたのかもしれないといまになって思います。

自分で自分を騙すといっても、水たまりを深淵と信じ込むのとはまったくちがう。同じ問題のようでいて、水深の深浅と心の真偽はまた別の問題でしょう。

ここにも、梅崎と自分の「謙虚さ」の違いを感じました。


「小説家というものは、わからないからこそ小説を書くのである。わかってしまえば小説なんか書かない」

ずっと以前、クローズアップ現代の「現在の若者の生き方について」みたいな回(まだ国谷さんがMCだった)で、山田太一さんがゲストに出ていた。

「何でこのテーマで山田太一がゲストなんだろう」と父に問うと、「人生の達人だからじゃないか」との答え。

いやいや、作家というものはわからないから書くんですよ、と思ったものだが、これもまた自分で自分を騙していたのだと思う。

私は「わからないから書く」と本当に思っていたのではなく、「作家とはわからないからこそ書くものだ」という知識を知っていただけなのだ。気づくのが遅すぎた。


「それから手法について。他人が使い古したありふれた手口を、できるだけ使うまいと心がける。たとえば年代記風の書き方、私はこれは昔からいやで、読むのも書くのも退屈だ。だから必ずひっくり返して、順序をばらばらにして書く。小細工と言われれば、それまでだけれど」

最後の「小細工と言われれば、それまでだけれど」の「、」が憎い。「それまでだけれど」の前の一瞬の躊躇に、作家としてのぎりぎりの「矜持」を感じるといったら大げさでしょうか。


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ボロ家の春秋 (中公文庫 う 37-2)
梅崎 春生
中央公論新社
2021-06-23



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