内田樹先生の『夜明け前(が一番暗い)』を読んでいたら、「これは!」と思わず膝を打つ箇所があった。


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子どもの将来の「夢」について
「君の将来の夢は?」と訊かれると気持ちが暗くなる高校生が増えているという。

「夢」を実現するためにはどういう学校のどういう学部学科に進学するか、いつまでにどのような知識・技術を習得するつもりなのか、ということを開示せよと学校から迫られる。

夏休みの宿題に「9月までに将来の夢を確定し、そのための計画を立てること」を求められた高校生がうんざりするのは当たり前である。

高校生の知識と想像力の範囲内で、それを実現するまでのプロセスチャートを一覧的に開示できる程度の夢のどこに「夢」があるというのか。

 
至極ごもっとも。いまはまるで幼いうちから夢をもつのがまるで「義務」であるかのように周りが求めてくる。小学校低学年から「やってみたいこと」や「大きくなったらなりたいもの」を記入しなければならないそうな。

しかしながら、それは50年ほど前も同じであった。(以下は内田先生の主張とはだいぶ違うが)

幼稚園の卒園式で私は「将来の夢は何ですか?」と訊かれ、返事に窮して黙り込んでしまった。他の同じ組の人間は「警察官」「学校の先生」「野球選手」などとすらすら答えているのに、私だけ最後まで何も言えず、帰ってから「あたしものすごく恥ずかしかったわ」と母親から呪詛をかけられた。

しかし考えてみてほしい。まだ6歳の人間が「将来何をしたいか」なんて何もありゃせんですよ! 「警察官」とか「野球選手」とか答えていた奴は、「相手の答えてほしい答えを答えてみせただけ」である。

私にはそのような技量もないし、あったとしても相手の答えてほしい答えを答えるなどという猿回しの猿になるようなことは絶対したくない主義なのでしなかった。

当時はこういう言葉がまだ体の中に育ってなかったから母親に反駁できなかったが、結局はそういうことである。

猿回しの猿にならせておいて「夢」を語らせるという、この大いなる矛盾!

「将来何になりたい?」という愚門は、大人たちが子どもに自分の望むものになってほしいという、それこそ呪詛である。そのような呪いをかけられた人間が幸せになれるとは到底思えない。

もっと自由にさせてあげてはいかがか。



ユング・コレクション (8)  子どもの夢 1
C・G・ユング
人文書院
1992-03-01


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