映画史には片隅でひっそり咲いている名作というものがある。『痴漢日記』がまさにそれ。久しぶりに見て堪能しました。(以下ネタバレあり)
『痴漢日記 尻を撫でまわしつづけた男』(1995、日本)
脚本:加藤正人
監督:富岡忠文
出演:大森嘉之、大竹一重、螢雪次朗、温水洋一
大森嘉之演じる主人公はマンガ家志望の若者で、雑誌に自作掲載を拒否されたために自暴自棄で帰る途中に痴漢を目撃し、自分も触ってみる。痴漢未経験の人間が実際に触るまで10分とたっておらず、語りの経済効率がすさまじいのだけど、それはこの際おいといて、この映画は、結論から言ってしまうと、触りたい変態と触らせたい変態とのラブストーリーなんですね。それも悲恋もの。
えー! 痴漢で悲恋? 『ローマの休日』とかと一緒にしないでほしい。という叫びが聞こえてきそうですが、これが本当にそうなんです。
なぜ痴漢するか
私は数日前の日記で、痴漢や強姦は性欲による犯罪ではなく支配欲による犯罪だといいました。男が女を自分の支配下に置きたくてやってるんだ、と。
でも、この映画によるとそれは違うみたいなんですね。
といっても、なぜ痴漢するのか、なぜ触りたいのか、どうもこの人たちはわかってないらしい。
温水洋一は会社をクビになり、妻に逃げられてもそれでも痴漢したいらしい。私からすれば結婚してる時点でなぜ痴漢を? と思うけど、それは螢雪次朗も同様で、捕まったら大変だとわかっていても触りたい、抱ける女ならたくさんいるけど、それでも触りたい、病気なんだな、と自嘲気味に笑います。
ここで大事なのは、彼ら痴漢が自分たち自身を「病気」と言いますが、作者は彼らを少しも病気扱いしていないことです。変態ではあるが、私たちと同じ「人間」として見ています。その眼差しが、反社会的な題材を扱いながらこの映画を不朽の名作にしています。
主人公も変態なら、彼と恋仲になる「触ってほしい女」大竹一重(何でも元ミス日本とか)のどちらもが、自分たちを「変態」呼ばわりするけれど、なぜ触りたいのか、なぜ触らせたいのか、わからない。ただどうしようもない衝動が体を動かす。理屈じゃない。
ただ、生きている
たまたま今日、谷川俊太郎さんの『生きる』という詩を読んだんですけど、こんな一節がありました。
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
痴漢や痴女たちもまた、ただ「生きている」だけなんじゃないのかなと思いました。ただ「自由」になりたくて。
何から自由になりたいのか。そりゃもう法律とか常識とかそういう「世間」の圧力からですよね。
しかし、それに逆らったら痛いしっぺ返しが来る。そうとわかっていても今日もやってしまう。なぜなら生きてるだけだから。呼吸をしないでは生きられないのと同じで、彼らは痴漢をしないと生きていけない。ということを彼らはわかっていない。わからないことに苛立ち、わからないことに心の疼きを覚えながら、今日も痴漢に精を出す。
現実には痴漢なんかみんないなくなってしまえ! と私は思っているけれど、痴漢は痴漢で必死で生きてるんだな、と思わせてくれるのがまさに映画のマジック。
繰り返しますが、そのマジックを成功させたのは、作者たちの痴漢・痴女へのやさしい眼差しです。
こういう映画を見もせずに唾棄すべきものと思いこんでいる人たちにこそ、ぜひ見てもらいたいもんです。
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『クラッシュ(1996)』感想(変態じゃない奴が変態なのだ!)
『痴漢日記 尻を撫でまわしつづけた男』(1995、日本)
脚本:加藤正人
監督:富岡忠文
出演:大森嘉之、大竹一重、螢雪次朗、温水洋一
大森嘉之演じる主人公はマンガ家志望の若者で、雑誌に自作掲載を拒否されたために自暴自棄で帰る途中に痴漢を目撃し、自分も触ってみる。痴漢未経験の人間が実際に触るまで10分とたっておらず、語りの経済効率がすさまじいのだけど、それはこの際おいといて、この映画は、結論から言ってしまうと、触りたい変態と触らせたい変態とのラブストーリーなんですね。それも悲恋もの。
えー! 痴漢で悲恋? 『ローマの休日』とかと一緒にしないでほしい。という叫びが聞こえてきそうですが、これが本当にそうなんです。
なぜ痴漢するか
私は数日前の日記で、痴漢や強姦は性欲による犯罪ではなく支配欲による犯罪だといいました。男が女を自分の支配下に置きたくてやってるんだ、と。
でも、この映画によるとそれは違うみたいなんですね。
といっても、なぜ痴漢するのか、なぜ触りたいのか、どうもこの人たちはわかってないらしい。
温水洋一は会社をクビになり、妻に逃げられてもそれでも痴漢したいらしい。私からすれば結婚してる時点でなぜ痴漢を? と思うけど、それは螢雪次朗も同様で、捕まったら大変だとわかっていても触りたい、抱ける女ならたくさんいるけど、それでも触りたい、病気なんだな、と自嘲気味に笑います。
ここで大事なのは、彼ら痴漢が自分たち自身を「病気」と言いますが、作者は彼らを少しも病気扱いしていないことです。変態ではあるが、私たちと同じ「人間」として見ています。その眼差しが、反社会的な題材を扱いながらこの映画を不朽の名作にしています。
主人公も変態なら、彼と恋仲になる「触ってほしい女」大竹一重(何でも元ミス日本とか)のどちらもが、自分たちを「変態」呼ばわりするけれど、なぜ触りたいのか、なぜ触らせたいのか、わからない。ただどうしようもない衝動が体を動かす。理屈じゃない。
ただ、生きている
たまたま今日、谷川俊太郎さんの『生きる』という詩を読んだんですけど、こんな一節がありました。
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
痴漢や痴女たちもまた、ただ「生きている」だけなんじゃないのかなと思いました。ただ「自由」になりたくて。
何から自由になりたいのか。そりゃもう法律とか常識とかそういう「世間」の圧力からですよね。
しかし、それに逆らったら痛いしっぺ返しが来る。そうとわかっていても今日もやってしまう。なぜなら生きてるだけだから。呼吸をしないでは生きられないのと同じで、彼らは痴漢をしないと生きていけない。ということを彼らはわかっていない。わからないことに苛立ち、わからないことに心の疼きを覚えながら、今日も痴漢に精を出す。
現実には痴漢なんかみんないなくなってしまえ! と私は思っているけれど、痴漢は痴漢で必死で生きてるんだな、と思わせてくれるのがまさに映画のマジック。
繰り返しますが、そのマジックを成功させたのは、作者たちの痴漢・痴女へのやさしい眼差しです。
こういう映画を見もせずに唾棄すべきものと思いこんでいる人たちにこそ、ぜひ見てもらいたいもんです。
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