話題作『バービー』を見て、いろいろと複雑な思いに駆られました。(以下ネタバレあり)
『バービー』(2023、アメリカ)

脚本:グレタ・ガーウィグ&ノア・バームバック
監督:グレタ・ガーウィグ
出演:マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、アメリカ・フェレーラ、アリアナ・グリーンブラット、ウィル・フェレル
まずは感想から
我が家のあれやこれやの前に映画の感想を記すと、特に面白いとは思いませんでした。つまらなくもなかったけど。
町山智浩さんのツイートで知ったんですが、冒頭の『20001年宇宙の旅』のパロディがわからない人がいるんですってね。まぁ見てなかったらわからないのもしょうがないけど、しかし、人形を大切にしないのは不快とかって小学生の感想文じゃないんだから! ボロボロの人形から華やかなバービー人形に発展したって流れは別に『2001年』を見てなくてもわかると思うんですけどね。
最後の『婦人科を受診します!」というのは、生殖器のないファンタジックな世界からリアルワールドへ、という宣言なんでしょうけど、あまりいい結末に思えませんでした。出来の悪いギャグみたいで。
じゃあ最初と最後の間にある、男尊女卑についてはどうなんだと言われそうですが、これについては後述します。
かつてスパイク・リーは、「政治的なことだけが映画のすべてであるはずがない」と言いました。誰も俺の映画の衣裳やセットのデザインに言及しない、と。
なら、政治的な事柄を扱った『バービー』だって、その思想性だけに言及しては片手落ちだろうと。

うーん、悪くないと思うんですけどね。悪くない程度なんだよな。ロドリゴ・プリエトを撮影監督にもってきてもこの程度かと。
同じ架空の町を舞台にした映画なら、『ディック・トレイシー』のほうが数倍上じゃないですか。ヴィットリオ・ストラーロとロドリゴ・プリエトを比べちゃいけないってことでしょうか。
セットと衣裳はいいけど、もっと光で遊ぶべきと思いましたね。もっとストラーロみたいにハチャメチャにやってほしかった。遊び心が足りない。
さて、では、本丸の男尊女卑について。
我が家の男尊女卑
映画本編で、バービーの元の持ち主であるグロリアが、「女はダイエットしてもダメ、ダイエットしなくてもダメ、何してもダメ」と男社会の悪弊を滔々と述べるシーンがあったじゃないですか。
あそこを見ていて、両親の喧嘩を思い出しました。
うちの両親は、完全に男性優位の関係で(私ぐらいの年代ならどこの家庭もそうでしょうが)母親は父親の言いなりになってばかりでした。
そんな母親が、私が20歳のときに家出しました。どこへ行ったかと思ったら尾道にいると。尾道からかかってきた電話に、親父さんは「いいからいますぐ帰ってこい!」と怒鳴ってました。
あのとき逃げておけば、お母さんにはお母さんなりの幸せがあったかもしれないと思ったし、後年、本人にそう言ったこともあったけど、「あのとき私が逃げてたらあんたは誰にご飯作ってもらうつもりだったの」と私の問題にすり替えられてしまいました。あれは卑怯です。
それはともかく、映画を見ていて浮かんだのは、牛の角ですね。人間などを襲わないように角を切られた牛。それが男社会における女。

ないはずの角を武器に反逆に出る女=母親が後半のバービーたちに重なりました。
角は切ったはずなのに……と親父さんはかなり動揺したはずです。実際、かなり怒っていましたが、オロオロしていることも伝わってきました。
でもですよ。ここからが映画とはちがうところです。
父は去年死にましたが、あれだけ奴隷扱いされ、死んでから数か月一度も泣けなかったと言っていた母が、先日、朝起きたらすごく気分が良さそうなのでわけを聞くと「夢にお父さんが出てきた」と言うのです。
尾道まで逃げたことはその後も何度か喧嘩のたびに言っていました。やはりあのままどこかへ逃げたかったのかもしれない。もしかしたら、バービーと同じように「死」を考えたこともあったのかもしれない。わからない。(←これ、今回初めて思い当たってショック)
しかし、いずれにしても、死んだ夫が夢に出てくるとうれしいという。ずいぶんと飼い馴らされてるなぁ、と思ったもんです。

だから、『バービー』のクライマックスから結末にかけては、しょせんは絵空事のような気がしないでもないんですよね。絵空事のままにしちゃいけないというのはわかるんですが。
でも、女性の中に「男より一歩下がるのがいい女」という考えが深く内面化されているかぎり、この映画はファンタジーの域を出ないというか、言葉でいろいろ言うけど(「あなた自身でいてほしい」とか)結局言葉は言葉でしかない。映画なのに映像で語ってくれない。
絵空事にしか見えないのは、言葉によりかかりすぎだからかもしれないと思いました。
自分自身のこと
私は親父とは死ぬちょっと前に縁を切りました。母親が尾道まで逃げたのと同じです。
でも、そうはいっても、「あの男はあの男なりに淋しかったんじゃないか」とか、「あの男の言い分にも一理あったんじゃないか」と考えている自分に気づくことがあるんですよね。
何だかんだ言って、私もよく飼い馴らされていたのでした。私は男だから父との間にジェンダーとかそういう問題はないにしろ、「父親の前ではいい子にしていないといけない」という思いが深く内面化されてしまっているのです。
この呪縛はおそらく死ぬまで続きます。女は男より一歩下がってという思いを深く内面化してしまった女性たちもたぶん死ぬまでその呪縛から逃れられないのでは?
だから、バービーやケンが言葉の本当の意味での男女平等に気づいたとしても、彼らはファンタジックな存在だからそれでいいとしても、男女平等が人間界に根づくにはまだまだ長い年月がかかりそうです。それまで地道で粘っこい活動をせねば。
私も男だから、どこかで女を蔑視しているところがありそうなので、まずはそれに気づくことから始めたいと思います。


『バービー』(2023、アメリカ)

脚本:グレタ・ガーウィグ&ノア・バームバック
監督:グレタ・ガーウィグ
出演:マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、アメリカ・フェレーラ、アリアナ・グリーンブラット、ウィル・フェレル
まずは感想から
我が家のあれやこれやの前に映画の感想を記すと、特に面白いとは思いませんでした。つまらなくもなかったけど。
町山智浩さんのツイートで知ったんですが、冒頭の『20001年宇宙の旅』のパロディがわからない人がいるんですってね。まぁ見てなかったらわからないのもしょうがないけど、しかし、人形を大切にしないのは不快とかって小学生の感想文じゃないんだから! ボロボロの人形から華やかなバービー人形に発展したって流れは別に『2001年』を見てなくてもわかると思うんですけどね。
最後の『婦人科を受診します!」というのは、生殖器のないファンタジックな世界からリアルワールドへ、という宣言なんでしょうけど、あまりいい結末に思えませんでした。出来の悪いギャグみたいで。
じゃあ最初と最後の間にある、男尊女卑についてはどうなんだと言われそうですが、これについては後述します。
かつてスパイク・リーは、「政治的なことだけが映画のすべてであるはずがない」と言いました。誰も俺の映画の衣裳やセットのデザインに言及しない、と。
なら、政治的な事柄を扱った『バービー』だって、その思想性だけに言及しては片手落ちだろうと。

うーん、悪くないと思うんですけどね。悪くない程度なんだよな。ロドリゴ・プリエトを撮影監督にもってきてもこの程度かと。
同じ架空の町を舞台にした映画なら、『ディック・トレイシー』のほうが数倍上じゃないですか。ヴィットリオ・ストラーロとロドリゴ・プリエトを比べちゃいけないってことでしょうか。
セットと衣裳はいいけど、もっと光で遊ぶべきと思いましたね。もっとストラーロみたいにハチャメチャにやってほしかった。遊び心が足りない。
さて、では、本丸の男尊女卑について。
我が家の男尊女卑
映画本編で、バービーの元の持ち主であるグロリアが、「女はダイエットしてもダメ、ダイエットしなくてもダメ、何してもダメ」と男社会の悪弊を滔々と述べるシーンがあったじゃないですか。
あそこを見ていて、両親の喧嘩を思い出しました。
うちの両親は、完全に男性優位の関係で(私ぐらいの年代ならどこの家庭もそうでしょうが)母親は父親の言いなりになってばかりでした。
そんな母親が、私が20歳のときに家出しました。どこへ行ったかと思ったら尾道にいると。尾道からかかってきた電話に、親父さんは「いいからいますぐ帰ってこい!」と怒鳴ってました。
あのとき逃げておけば、お母さんにはお母さんなりの幸せがあったかもしれないと思ったし、後年、本人にそう言ったこともあったけど、「あのとき私が逃げてたらあんたは誰にご飯作ってもらうつもりだったの」と私の問題にすり替えられてしまいました。あれは卑怯です。
それはともかく、映画を見ていて浮かんだのは、牛の角ですね。人間などを襲わないように角を切られた牛。それが男社会における女。

ないはずの角を武器に反逆に出る女=母親が後半のバービーたちに重なりました。
角は切ったはずなのに……と親父さんはかなり動揺したはずです。実際、かなり怒っていましたが、オロオロしていることも伝わってきました。
でもですよ。ここからが映画とはちがうところです。
父は去年死にましたが、あれだけ奴隷扱いされ、死んでから数か月一度も泣けなかったと言っていた母が、先日、朝起きたらすごく気分が良さそうなのでわけを聞くと「夢にお父さんが出てきた」と言うのです。
尾道まで逃げたことはその後も何度か喧嘩のたびに言っていました。やはりあのままどこかへ逃げたかったのかもしれない。もしかしたら、バービーと同じように「死」を考えたこともあったのかもしれない。わからない。(←これ、今回初めて思い当たってショック)
しかし、いずれにしても、死んだ夫が夢に出てくるとうれしいという。ずいぶんと飼い馴らされてるなぁ、と思ったもんです。

だから、『バービー』のクライマックスから結末にかけては、しょせんは絵空事のような気がしないでもないんですよね。絵空事のままにしちゃいけないというのはわかるんですが。
でも、女性の中に「男より一歩下がるのがいい女」という考えが深く内面化されているかぎり、この映画はファンタジーの域を出ないというか、言葉でいろいろ言うけど(「あなた自身でいてほしい」とか)結局言葉は言葉でしかない。映画なのに映像で語ってくれない。
絵空事にしか見えないのは、言葉によりかかりすぎだからかもしれないと思いました。
自分自身のこと
私は親父とは死ぬちょっと前に縁を切りました。母親が尾道まで逃げたのと同じです。
でも、そうはいっても、「あの男はあの男なりに淋しかったんじゃないか」とか、「あの男の言い分にも一理あったんじゃないか」と考えている自分に気づくことがあるんですよね。
何だかんだ言って、私もよく飼い馴らされていたのでした。私は男だから父との間にジェンダーとかそういう問題はないにしろ、「父親の前ではいい子にしていないといけない」という思いが深く内面化されてしまっているのです。
この呪縛はおそらく死ぬまで続きます。女は男より一歩下がってという思いを深く内面化してしまった女性たちもたぶん死ぬまでその呪縛から逃れられないのでは?
だから、バービーやケンが言葉の本当の意味での男女平等に気づいたとしても、彼らはファンタジックな存在だからそれでいいとしても、男女平等が人間界に根づくにはまだまだ長い年月がかかりそうです。それまで地道で粘っこい活動をせねば。
私も男だから、どこかで女を蔑視しているところがありそうなので、まずはそれに気づくことから始めたいと思います。


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