脚本家の荒井晴彦さんなんかがよく言いますけど、「映画とは何をどう撮るかだ」と。

それ自体は絶対的に正しいでしょう。本来は「何をどうつなぐか」という編集の問題もあるんですけど、それはまた別の話。

で、その「何をどう撮るか」という問題において、「何を」と「どう」を分けるんですね。「何を」は脚本家の領域で、「どう」は監督の領域だと。

うーん、これは解せません。荒井さんは自分で監督もする人なのになぜこのような誤った認識をされているのでしょうか。


脚本の「どう」
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まず、脚本が「何を」を担当しているのは誰の目にも明らかです。どういう物語か、テーマは何か、登場人物のキャラクターはどんなものか、などなど。

でも、脚本は「どう」も担当してるんですよね、実は。だって、「切り口」の問題があるじゃないですか。同じ物語でも、どういうファーストシーンから切り出すかで印象も面白さも全体の話の運びも変わってしまうのですから。

それに、例えば銀行強盗のシーンを描くときでも、『俺たちに明日はない』のようにやるか、『HANAーBI』のようにやるかで印象も面白さも変わってきます。脚本にも「どう」はあるのです。


監督の「何を」
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監督の「何を」の前にまず「どう」ですが、画像のようにカメラマンをクレーンに乗せてカメラは三脚に固定して撮らせたりして、「どう撮るか」、つまりは脚本に書かれたひとつひとつの描写を「どう見せるか」という部分を大きく担っています。

でも、この「どう撮るか」の前に「何を」があるんですよね、実は。


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いくら脚本にいろんな描写が書いてあるからといって、すべては書いてありません。必要最小限のことが書いてあるだけ。極端なことをいえば動きとセリフだけ。形容詞と副詞は俳優がつけなければなりません。

そうです。監督は「どう撮るか」の前に「何を撮るか」を固めないといけないのです。それはつまり、役者の芝居です。

脚本家は「何を」だけを担っているのではなく「どう」も扱っているし、同様に、監督も「どう」だけをやっているわけではなく、「何を」が一番の仕事です。

どう撮るかはカメラマンに丸投げしても大丈夫だし、どうつなぐかは編集マンに丸投げしても大丈夫だけど、演技指導は他の人に任せられない。もし任せてしまったらその人はもはや監督ではありません。実際に演技指導する人が本当の監督です。

というわけで、いまだにいろんな人が誤解していることを正したくて筆を執った次第です。


演技指導論草案
伊丹 万作
2012-10-01


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