1989年の快作『トレマーズ』を再見しましたが、これまた新しい発見がありました。(以下ネタバレあり)


『トレマーズ』(1989、アメリカ)
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原案:S・S・ウィルソン、ブレント・マドック&ロン・アンダーウッド
脚本:S・S・ウィルソン&ブレント・マドック
監督:ロン・アンダーウッド
出演:ケビン・ベーコン、フレッド・ウォード、フィン・カーター、ロバート・グロス、ビクター・ウォン


神話学的考察
まず、邦題にもなっている「トレマーズ」(tremorの複数形)という言葉の意味ですが、「微震」を意味するそうです。その微震というか、実はかなり大きな揺れをもたらす地中怪物をいかにして倒すかという物語がこの『トレマーズ』の骨子です。

神話は主に3つの物語から成ります。

身体の物語
心理の物語
感情の物語

この映画における「身体の物語」ははっきりしてますが、「心理の物語」は? 心理の物語とは、問題解決における知恵の獲得という意味なので、最後にケビン・ベーコンが怪物をやっつけるアイデアがそれに当たります。が、彼はそれをただ「ひらめいた」だけです。何の経験的知見も学術的知見もなく、本当にただ急にひらめいただけ。そこに「物語」はありません。


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「感情の物語」もそうです。感情の物語とは、主に男女間のラブストーリーとか、同性同士の友情、あるいは憎しみの物語として語られます。この映画の感情の物語は、ケビン・ベーコンと、彼の少しもタイプでない女子学生とのラブストーリーがそれに当たりますが、かなりとってつけた印象はぬぐえず、ないほうがよかったんじゃないかと思えるほどです。

つまり、この『トレマーズ』は、ほとんど「身体の物語」しかなく、「神話」として機能していないのです。

なのに、なぜこんなに面白いのか。


皆殺しにされるかもしれないのに
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この映画は地中怪物に皆殺しにされるかもしれないのに、かなり牧歌的ですよね。結構笑える。怖すぎて笑えるというより、単純に可笑しい。怪物を殺ったかと思ったら途端にそのオレンジ色の肉片が降ってくるところなんか特にね。

怪物が獰猛でありながら結構かわいらしい造形をしているからとか、夜のシーンがほとんどなくて陽光降りそそぐ昼間のシーンばかりだからとか、いろいろ理由はありましょうが、一番は、「ご都合主義」だと思います。

作者に都合のいいご都合主義はよくないけれど、観客にとって都合のいいご都合主義は大歓迎。

この映画における、観客にとって都合のいいご都合主義とは何かというと、

「登場人物が目の前の出来事をすぐ信じる」
「観客は登場人物の言っていることを信じ込まされる」

この二つに尽きると思います。

まだ序盤で、ケビン・ベーコンとフレッド・ウォードが最初の怪物が排水口にぶつかって動かなくなったのを見たとき、ケビン・ベーコンは「死んだんだ」と一言つぶやきます。

初めて見る生き物だし、殺戮生物だし、死んだと即断するのはかなり危険だと思うんですが、あそこで死んだかどうか確かめていると無駄な時間が過ぎ去ってしまう。だから「死んだ」と即断し、周りの登場人物もそれを信じて、死んだものとして怪物を扱う。危険かもしれないと思うのは「世界の原理」だけれど、この『トレマーズ』を覆っているのは何ともあっけらかんとした「映画の原理」なのです。もたもたしてたら120分超えてしまう。観客のことを考えてスピーディーに話を運ぼうと作者たちは考えたはず。そのために「映画の原理」で貫くことを徹底したのでしょう。でなかったら95分に収まりません。

主役は「死んだ」と断ずる。そして観客も死んだんだと信じ込まされる。そこに何の「迷い」もない。普通なら虫の息の怪物が断末魔の苦しみでもう一度襲ってくるかもしれないけど、そんなの一切なし。主役が「死んだ」と言った以上、死んだのだという潔さ。この映画の牧歌的な明るさはこういうところに潜んでいる気がします。

牧歌的な明るさの理由がもうひとつあります。


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この中の少年は、悪ふざけの常習犯です。怪物の下の部分を体に巻いて悲鳴を上げてみんなを驚かせたりする。こんなよけいなことをする人物は普通なら殺されるはずですが、彼は最後まで生き残ります。

思えば、よけいなことをするといえば前半にこんな人がいました。ある老夫婦で、この映画で数少ないナイトシーンに出てくる人物ですが、奥さんのほうが「恐いから逃げましょう」と言っているのに、「あれは間欠泉だよ。間欠泉はこんな臭いがするんだ」と言って見に行って食われてしまう。

同じよけいなことをする人物なのに、この扱いの違いはなぜ?

答えは簡単。老人は逃げるべきときに逃げなかった。悪ふざけ常習犯の少年は逃げるべきときにちゃんと逃げる人物だった。それだけの話。

そして、我らがケビン・ベーコンは「行くべきときに行く」人物として設定されています。そこには何の「迷い」もない。彼だって人間なんだから恐いだろうし死にたくないだろうに、少しも躊躇することがない。それが「世界の原理」だろうに、徹頭徹尾「映画の原理」が貫かれているこの映画で彼はいっさいの迷いを見せません。

牧歌的な明るさは、上記二つの「迷いのなさ」が理由と思われますが、いかがでしょうか。


トレマーズ (字幕版)
ヴィクター・ウォン
2019-02-25



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