野島伸司さんの1993年TBSドラマ『高校教師』を見ました。(以下いきなりネタバレしてます。ご注意あれ)
『高校教師』(1993)

脚本:野島伸司
出演:真田広之、桜井幸子、赤井英和、峰岸徹、京本政樹、持田真樹、渡辺典子、黒田アーサー
ラストの解釈は?

このドラマを語るうえで避けられないのは、やはりラストの解釈でしょうね。
二人は心中したのか。それとも片方だけ死んだのか。いやいや、それとも二人とも眠っていただけなのか。
真田広之の家で二人でひそんでいて、そこから真田だけが逃げることになり、新幹線に乗るのだから、最後に出てきた桜井幸子は真田の幻想ですよね。死んだ真田の夢の中の存在でしょうか。制服着てるのも、だからですよね。
つまり、私の解釈は、桜井幸子は真田広之の家で独りで待っていて、真田だけが死んだ、です。死んだ彼が二人で仲良く小指を赤い糸でつないで安らかに眠っている夢を見ているのでしょう。
二人とも死んだ、つまり心中したという解釈でもいいです。別に。私にとって大事なのはそこじゃないから。
峰岸徹を刺す真田広之
まだ表明してませんでしたが、私はこの『高校教師』、ひどくつまらなかったです。ラストを曖昧にして視聴者に解釈を丸投げしてるのもそうだし、何より「暴力」があまりに多い世界観にげんなりしました。
脚本家を志して何本を書いた経験から言うと、暴力は「麻薬」です。人物の関係を劇的に変えることができるうえに、映像作品として見せ場にもなる暴力シーンは、ゆえに、安易に書いてしまいやすい。
最後のほうは自作シナリオを読んでるような気分になり、恥ずかしかったです。
一番げんなりした暴力は、やはり第10話のラスト、真田広之が桜井幸子の父親・峰岸徹を彫刻刀で刺すシーンですね。
真田広之は、もともと弱気で生物の研究にしか興味がない、害のない男として設定されてましたよね? それが、いくら激情に駆られたからといって刺しますかね? あれはかなりがっかりしました。
同じ暴力でも赤井英和の暴力はまだいいんですよ。最初から暴力教師という設定だから。でも、あまりに安易に手を出しすぎかと。
野島さんの作品はほとんど見たことないからよくわかりませんが、安易に暴力シーンを書くから、つい筆が滑って他のシーンでも簡単に暴力を描いてしまったんじゃないでしょうか。

前半で、バスケ部の主将が桜井幸子に塩酸をかけて大怪我させますが、あれもないほうがよかった。悪い奴はさらに悪く見せることができるし、主人公側の被害の甚大さで悲劇性が高まる。だから麻薬なんですよね。
すべてのシーンで暴力がないほうがよかったと思います。ラブストーリーだから言葉の暴力はあっていいけど、レイプとか殺人未遂とかすぐ殴るとか、そういうシーンは見たくなかった。
外向きの暴力・内向きの暴力

例えば、やくざ映画とかギャング映画、あるいはアクション映画なら、暴力の応酬の果てに、主人公が他者を殺害して終わり、でいいと思うんですよ。ハッピーエンドであれ、アンハッピーエンドであれ。
でも、この『高校教師』はラブストーリーのうえに主人公のキャラクター設定が「弱気な男」なので、そうなるのはおかしいと思う。
やはり、やくざ映画やアクション映画みたいに、暴力の応酬を序盤から描きすぎたのがいけないんじゃないですかね? 真田広之の目の前でいろんな暴力が行われるので、彼もまた暴力の虜となり、峰岸徹を刺してしまった。(というか野島さんがそういうシーンを書いてしまった)
とはいえ、何だかんだいっても真田広之は常識の範囲内で生きている人間だから、もうそれ以上、「外向きの暴力」を発動できない。できない以上、彼の暴力は内側、つまり自分に向かうしかない。それで死んだんだと思います。
すべては暴力満載の世界観が災いして、終盤の主人公像を歪めてしまった。それがこの『高校教師』のすべてでしょう。
前半に、真田広之と桜井幸子が一夜を共にする前提として、渡辺典子との婚約解消や、教授に論文を盗まれたうえに研究室から追い出されたりと、真田広之が自暴自棄になる描写があったから自然な流れとして納得できた。
終盤はそういう整えられた背景がまったくなく、作者の都合で人物が動いているようでげんなりしました。

もし暴力のない世界観なら、二人はどういうことになっていたでしょうか。ラストの解釈より、私はそっちのほうがよっぽど気になります。
『高校教師』(1993)

脚本:野島伸司
出演:真田広之、桜井幸子、赤井英和、峰岸徹、京本政樹、持田真樹、渡辺典子、黒田アーサー
ラストの解釈は?

このドラマを語るうえで避けられないのは、やはりラストの解釈でしょうね。
二人は心中したのか。それとも片方だけ死んだのか。いやいや、それとも二人とも眠っていただけなのか。
真田広之の家で二人でひそんでいて、そこから真田だけが逃げることになり、新幹線に乗るのだから、最後に出てきた桜井幸子は真田の幻想ですよね。死んだ真田の夢の中の存在でしょうか。制服着てるのも、だからですよね。
つまり、私の解釈は、桜井幸子は真田広之の家で独りで待っていて、真田だけが死んだ、です。死んだ彼が二人で仲良く小指を赤い糸でつないで安らかに眠っている夢を見ているのでしょう。
二人とも死んだ、つまり心中したという解釈でもいいです。別に。私にとって大事なのはそこじゃないから。
峰岸徹を刺す真田広之
まだ表明してませんでしたが、私はこの『高校教師』、ひどくつまらなかったです。ラストを曖昧にして視聴者に解釈を丸投げしてるのもそうだし、何より「暴力」があまりに多い世界観にげんなりしました。
脚本家を志して何本を書いた経験から言うと、暴力は「麻薬」です。人物の関係を劇的に変えることができるうえに、映像作品として見せ場にもなる暴力シーンは、ゆえに、安易に書いてしまいやすい。
最後のほうは自作シナリオを読んでるような気分になり、恥ずかしかったです。
一番げんなりした暴力は、やはり第10話のラスト、真田広之が桜井幸子の父親・峰岸徹を彫刻刀で刺すシーンですね。
真田広之は、もともと弱気で生物の研究にしか興味がない、害のない男として設定されてましたよね? それが、いくら激情に駆られたからといって刺しますかね? あれはかなりがっかりしました。
同じ暴力でも赤井英和の暴力はまだいいんですよ。最初から暴力教師という設定だから。でも、あまりに安易に手を出しすぎかと。
野島さんの作品はほとんど見たことないからよくわかりませんが、安易に暴力シーンを書くから、つい筆が滑って他のシーンでも簡単に暴力を描いてしまったんじゃないでしょうか。

前半で、バスケ部の主将が桜井幸子に塩酸をかけて大怪我させますが、あれもないほうがよかった。悪い奴はさらに悪く見せることができるし、主人公側の被害の甚大さで悲劇性が高まる。だから麻薬なんですよね。
すべてのシーンで暴力がないほうがよかったと思います。ラブストーリーだから言葉の暴力はあっていいけど、レイプとか殺人未遂とかすぐ殴るとか、そういうシーンは見たくなかった。
外向きの暴力・内向きの暴力

例えば、やくざ映画とかギャング映画、あるいはアクション映画なら、暴力の応酬の果てに、主人公が他者を殺害して終わり、でいいと思うんですよ。ハッピーエンドであれ、アンハッピーエンドであれ。
でも、この『高校教師』はラブストーリーのうえに主人公のキャラクター設定が「弱気な男」なので、そうなるのはおかしいと思う。
やはり、やくざ映画やアクション映画みたいに、暴力の応酬を序盤から描きすぎたのがいけないんじゃないですかね? 真田広之の目の前でいろんな暴力が行われるので、彼もまた暴力の虜となり、峰岸徹を刺してしまった。(というか野島さんがそういうシーンを書いてしまった)
とはいえ、何だかんだいっても真田広之は常識の範囲内で生きている人間だから、もうそれ以上、「外向きの暴力」を発動できない。できない以上、彼の暴力は内側、つまり自分に向かうしかない。それで死んだんだと思います。
すべては暴力満載の世界観が災いして、終盤の主人公像を歪めてしまった。それがこの『高校教師』のすべてでしょう。
前半に、真田広之と桜井幸子が一夜を共にする前提として、渡辺典子との婚約解消や、教授に論文を盗まれたうえに研究室から追い出されたりと、真田広之が自暴自棄になる描写があったから自然な流れとして納得できた。
終盤はそういう整えられた背景がまったくなく、作者の都合で人物が動いているようでげんなりしました。

もし暴力のない世界観なら、二人はどういうことになっていたでしょうか。ラストの解釈より、私はそっちのほうがよっぽど気になります。
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