去年話題になったフランス映画『愛する人に伝える言葉』を見たんですが、これが劇場で見逃したのを激しく後悔するくらい見応えがありました。(以下ネタバレあります)


『愛する人に伝える言葉』(2021、フランス)
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脚本:エマニュエル・ベルコ&マルシア・ロマーノ
監督:エマニュエル・ベルコ
出演:ブノワ・マジメル、カトリーヌ・ドヌーブ、ガブリエル・サラ、セシル・ドゥ・フランス


キーワードは「演劇」
離婚して息子も捨てたため、身内は母親一人しかいない中年の男が末期のすい臓がんと診断され、死ぬまでの物語なんですが、「看取る」とはどういうことか、がテーマです。そして、そのテーマを表現するためのキーワードが「演劇」です。

演劇だって? つまり芝居ってこと? 死ぬ人間を前にしていい顔を演じるのが看取りってことなのか!?

と怒りたい向きもあるかもしれませんが、この映画が扱っている「芝居」とは「本物」ということです。本心からの言動のことです。

主人公は演劇学校の教師ですが、終盤、死の床から生徒たち全員に向けてメッセージを送ります。

「全力を傾け、本物であれ」

この「本物」がどういう意味かは、彼の教え子ならずともこの映画の前半を見ていた私たちには簡単にわかります。偽りの感情を醸成して「うまい芝居」をするのではなく、本物の感情を見せろ、ということですね? 技術で、小手先で演じることを彼は徹底的に嫌っていましたから。(「殻を破れ!」なんてピーター・ブルックみたいなことも言ってましたね)


主治医の考え方
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主治医を演じるのは何でも監督が偶然知り合った本物の医者らしいですが、それはともかく、前半の看護師たちとのミーティングで、主治医はとても興味深いことを言います。

「終末医療における『ヒーロー』は誰だと思う? 不運な患者なんだ。周りは『病魔をやっつけろ!』と囃し立てる。が、本当に患者に必要なのは『死ぬ許可』なんだ。『もういいんだよ。死んでいいんだよ』と言ってあげられるかどうか」

まず、終末医療を「ヒーロー」を主軸とした「神話」と捉えているのが興味深い。神話はすべての映画や演劇の礎ですから、終末医療だけでなく、この映画自体が患者をヒーローとした神話として構築されているのでしょう。メタというやつです。

主治医は主人公の最期に際して言います。

「私は君の主治医でよかった」

この言葉が嘘であることは明白です。主治医は彼が死んだとき、妻と一緒に車で旅行中でした。特にショックを受けてるふうではない。たくさん診てきた患者の一人が死んだというだけの感じでした。残酷なまでに。

それが悪いと言っているのではなく、たとえそうでも、彼の前では「私は君の主治医でよかった」と本物の感情をこめて言えるかどうか、それが「看取り」なのだとこの映画は言っているように感じました。


セシル・ドゥ・フランスとの絡み
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セシル・ドゥ・フランス看護婦(めちゃ魅力的)との絡みは、もっと複雑で味わい深いものでした。

主人公が彼女を好いていることは一目瞭然ですが、彼女が彼のことをどう思っているかは曖昧でよくわからない。

ついに彼とキスシーンを演じるに至っても、それが本心からなのか、本心に見せた演戯なのか判然としません。主人公の生徒だって恋人同士でもないのに演戯中に感極まってキスしてましたもんね。

人間の言動のどこまでが演戯で、どこからが本心かなんてそれこそ人間の目にわかるのでしょうか? 

ブノワ・マジメルの目には本物に見えたならそれでいいのでは?


息子の歌
彼が捨てた息子は、何度も主治医に会うなど、父親に会おうとしてましたが、死んだ直後にやっと病室に入ってきます。

これは、おそらく、まだ若く未熟な彼には、自分を捨てた父親に「本物の感情」を見せることができないから、と作者が考えたからではないか。だから死んだ直後に入ってくる。

そこで、普通の言葉は何も出てこないけど、歌なら出てくる、というのは示唆的ですよね。歌を歌うというのは、それこそ「演戯」ですから。

とにもかくにも、看取りの映画を見て、演劇に思いをめぐらすことになるとは思いもよりませんでした。素晴らしい映画でした。


殻を破る―演劇的探究の40年
ピーター ブルック
晶文社
1993-12T


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