3日ほど前にツイッターで、「シネフィルおじさん」なるハンドルネームの人が、

「映画を1000本すら見てない人は、映画好きを名乗る資格はないと僕は思いますね」

とツイートしたのが発端で大炎上騒ぎになったらしい。あまり興味がなかったので後を追ったり、どういうコメントが殺到してるのかとか見てませんでしたが、今日になって私もその人と同じような心性をもっていると気づき、筆を執りました。

そのために、シネフィルおじさんのこれまでのツイートを読みたかったんですが、何とツイッターを退会しちゃったんですね。残念! 以下は、他の人のツイートや、スクショで残っているシネフィルおじさんのツイートを頼りに書きました。


①量は質を生む
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『スコセッシはこうして映画を作ってきた」という本では、映画狂のスコセッシが大量の映画を見ていたことについて、「量は質を生む」と好意的に書かれていました。

しかし、私は最近、批評家の若松英輔さんのある本に「量が質を生むとはかぎらない」と書かれてあるのを読んで、確かにその通り! と膝を打ったのです。

シネフィルおじさんは、明らかに「量は質を生む」の側の人でしょう。量をたくさん見てないと映画好きとしての資質がないと言っているのですから。

黒沢清監督がぴあシネマフェスティバルのゲストに招かれたときのティーチインで、「あんまりたくさん見るってのはどうなんでしょうね。量より質だと思います」と言っていました。

宮藤官九郎氏は、「100本の映画を1回ずつ見るより、1本の映画を100回見るほうが真実に近づけると思う」と言っていて、なるほど、その通りだとこれまた膝を打つも、ちょっと待てよ、と。

1本の映画を100回見たほうが……ということは、これもまた「量は質を生む」ってことですよね。1回より100回という量が質を生むわけですから。100タイトルという量は望めないけど、同じぐらいの時間を費やすという意味ではまったく同じ。やはり「量は質を生む」のか……?

私は脚本家の夢をあきらめてからは、本数をできるかぎり見るという見方は捨てました。が、いまでも、映画鑑賞記録をつけていると、「あ、今月はまだ18本しか見てないぞ。もっと見なきゃ」と思ってしまうことがあるんですよね。

1000本云々シネフィル云々なんてあほらしいと思っていた私ですらそうなのだから、たいていの映画ファンは本数を気にしてるんじゃないですか。だから、シネフィルおじさんだけでなく、彼を非難していた人も私も同じ穴のムジナなんじゃないかと思います。


②映画好きとは何か
2番目の問題として、「映画好き」とは何か、というのがあります。シネフィルおじさんは最初に言いました。「1000本見てなければ映画好きと名乗る資格はない」と。

「名乗る資格はない」というところに、映画好きであるためには客観的基準がある、と言いたいわけですね。ここで言うなら「1000本見る」という。

でも「映画好き」って単に「映画が好きな人」でしょう? 私、映画が好きなんです! というために、なぜ「資格」なるものが必要なのか。そんなの、たくさん見てる人間が上から目線で初心者を抑圧しているだけではないのか。

いや、でも、これもねぇ、シネフィルおじさんのことをとやかく言えない自分がいるんですよ。

「シネフィルおじさんは近い将来から来た自分自身かもしれない」となかなか秀逸なツイートをしている人がいましたが、私の場合は、過去から来た自分自身と重なるんですね。

よくツイッターで話題になるのが、『○○○○』も見てないのに映画を語るなというのがありますが、あれも、いまとなっては「そんなの暴論ですよ」と白けてしまうけれど、過去の私はそういうことしょっちゅう思ってましたよ。

だから、いまの自分とシネフィルおじさんが相容れない人はたくさんいるだろうけど、未来や過去の自分と重なる人はたくさんいるんじゃないかと思います。


③自分のしていることにうっとりする人嫌いよ
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「人の価値はどれだけの本数映画を観ているからで決まると本気で思っております」

とシネフィルおじさんは言ったそうですが、これも暴論なのは明らかです。なぜかといえば、自分がやってること(映画を見ること)を素晴らしいこと、至高のことだと言っているからです。

映画じゃないけど、山田太一さんの名作というほかない『早春スケッチブック』では、岩下志麻が、

「おかあさん、自分のしていることにうっとりする人嫌いよ」

というセリフがあり、すぐれた映画やテレビドラマを見ていれば、こういうセリフと何度も出逢い、自分自身をできるだけ客観的に見つめようとする気持ちが芽生えるはずなんですよ。でもシネフィルおじさんはそれができなかった。

上記①②については過去の自分と重なるから非難できないと言いましたが、この③についてだけはまったく相容れません。

映画を狂ったように見始めたときも、映画ばかり見ている自分が少し恥ずかしかった。見ているときはいいけど、たまに友人に会って話をすると、みんな映画なんか見てなくて、私よりずっと人生を謳歌している。

ついに大台に乗ったときも、うれしい反面、ちょっと恥ずかしかった。何か映画しか見てこなかったのかと誰かに笑われているようで。脚本は書いてましたが、愚にもつかないものばかりで。

シネフィルおじさんはそういうふうに内省することがこれまでずっとなかった人なのかもしれません。

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若松英輔さんの『悲しみの秘義』をさっき読み始めたんですが、こんな一節がありました。

「人は、自分の心の声が聞こえなくなると他者からの声も聞こえなくなる」

というわけで、シネフィルおじさんを鏡にして、自分を見つめ直すことができました。


スコセッシはこうして映画をつくってきた
メアリー・パット ケリー
文藝春秋
1996-08-01



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