若松英輔さんの『本を読めなくなった人のための読書論』を読んで、平易な言葉で書かれて、かつ、余白が多くて読みやすい詩集を読もうと、他でもない若松英輔さんの詩集を3冊読んでみました。図書館で借りてね。(笑)

随筆と同じく、詩集も滋味に富んだ言葉がとても多い。『幸福論』という詩集を中心に、印象に残ったフレーズごとに感じたことをつらつらと書いてみます。


『幸福論』
152100430

「多忙な人」より
世の中が
仕事と呼ぶものに
心を
奪われてはいけない

これは本当に同感ですね。「仕事が生き甲斐」とか意味がわからない。私はよく体調が悪いことを仕事をしない理由にしてないか、と責められるんですけど、いやいや、みんなのほうが仕事を理由に人生を犠牲にしてるんじゃないの? とひそかに思ってます。

ある職場では、40度近くの熱があってもシフトが入っている日は絶対に出勤せねばならず、誰もそれをおかしいと思ってなかった。当然、すぐ辞めました。狂ってるとしか思えなかった。


「鞭を打つ」(全文)
おのれに
鞭打つのは 止めよ
愛する人のように
みずからを
いつくしめ

ほらほら、若松英輔さんも同じこと言ってますよ。

これはもう特に日本人みんなに言えるんじゃないですかね。耐えることを美徳とし、逃げだすことを潔しとしない国民性。もっと自分を大事に。自分をいじめている人の何と多いことか。

苦しめば苦しむほど見返りがある。もうそんな時代じゃない。と多くの人が言うけど、言ってるだけで日本人の精神性=根性主義はいまも昔も変わってないと思う。いまだに部活で過度の指導が発覚するのがいい例でしょう。


「裁く眼」より
大切な 友の過ちを
受け容れるように みずからを
ゆるせ

何だかんだいっても、私は自分自身を甘やかしているところがあるなぁと思うんですけど、この一節を読むと、「大切な友の過ちを受け入れるように自らを赦している」かと胸に手を当てて聴いてみると、どうもそうではなく、どこかで自分はダメな奴である、生きるに値しない奴である、生きる資格がない、生まれてきたことが間違いな奴、などと自分を責めているところがあるなぁと思った次第。

もっと自分に甘くなってもいいんじゃないか。甘やかすのはダメだろうけど、自分を赦す、大切な友の過ちを受け入れるように。

先日、「クローズアップ現代」で、ジャニー喜多川の性加害を取り上げられてましたが、桑子アナが「自分を責めないでほしい」と言っていました。性被害もこの詩に当てはめられる出来事なのかなと、ふと思いました。(私にはそういう経験がないからはっきりとはわかりませんが)


「開かない扉」より
言葉ではなく
おもいを
届けたいのなら
口ではなく 心で
語らなくてはいけない

これはもう文句のつけようがない正論。上記の「苦しめば苦しむほど見返りがあるなんて、もうそんな時代じゃない」と誰もがいう言葉は、だから口先だけの言葉なんでしょうね。腹から声を出してない。

しかしながら、私が口ではなく心で語れているかどうかは自信がない。心で語る、といえば聞こえがいいけど、具体的にどういうことなんだろう? 口先ではなく、ということかな?

そういえば、「おまえの言葉には力がある」と言われたことがあります。ちょっとは自信をもっていいんだろうか?

よく、「文章をうまく書くにはどうすればいいんですか?」なんて質問を受けることがあるんですけど、私は常に「うまく書こうとしないこと」と答えます。「どうすればそういう境地になれるのか」とみな途方に暮れた顔になるので、「あなたにこういうことを伝えたい」「世の中にこういうことを訴えたい」というその気持ちだけを大事にするんですよ、とアドバイスしますが、うまくできたという人がほとんどいません。みんな小手先で書いちゃうんですね。小手先で書いた文章も、口先で発した言葉も、人の心を響かせることはできません。

黒澤明監督とよく組んでいた脚本家の小國英雄さんは、こんな名言を残しています。

「テクニックが名作を生むのではない。名作がテクニックを生む」


「人生の秘義」(全文)
よわい人になれ
つよいだけの人は
人生の秘義を知らない
誰かを助け 励ましてばかりいて
助けられることを 知らない

ここでいう「よわい人」って「強い人」のことですよね。おそらく、市川猿之助のスキャンダルと事件がありましたが、ああいうセクハラやパワハラをする人って、若松さんの言う「つよい人」なんだと思うんです。でも、それは「弱さ」の裏返しであって、弱いからこそ他人に激しく当たる。自分の強さを誇る。たぶん、自分の評判を上げるためにいろんな人を助け、面倒を見ていたのでしょう。

でも本当は弱いからスキャンダルが世に出るとあんな事件を起こして死のうとする。誰かに助けてもらうことを知らない。

ああいう「弱い人」じゃなくて、若松さんの言う「よわい人」は、他人を不幸にしたりしない人のことだと思う。

まぁ私も人のことは言えないような気もしますが。


「凡庸な一語」より
世に
流布する金言を
集めてはいけない
それは鎧の重さを
増やすにすぎない

金言をたくさん知っていると人生が豊かになる。でも言葉は思考の過程で生まれるものだから、言葉を知りすぎると考えすぎてしまうんですよね。この私がいい例です。

考えると不幸になるって昔、誰かが言ってました。私の最初の主治医は「あまり考えなさんな。それより行動していこう」とよく言っていました。金言を集めまわるより、ひとつの行動が何かを変える。でも、行動には言葉の裏打ちがあったほうがいいときもある。この塩梅が難しいんだと思います。


「書く理由」より
思ったことを
書くのではない
宿ったことを
書くのだ

これは脚本家を目指していた私にはよくわかる。アイデアとは思ったこと、つまり、自分の心の中から出てきたことではなく、天から降ってくるんですよね。降ってきただけならただの思いつきだけど、降ってきてそれが心に定着したら、つまり、宿ったら、それは本物のアイデア。

そう思って書いてました。


『たましいの世話』
91Cugz8z6nL (2)

「祈る意味」(全文)
おまえが
ひとり
祈ったところで
明日
世の中が
変わるわけではない

だが おまえが
ほんとうに
祈りの意味を
知ったなら
おまえ自身が変わるだろう


あるイタリアの作家が言っていました。

「いくら小説を書いても世界を変えることはできない。でも、書くことで自分が変わることができる」

書くとは私にとって「本当の意味で祈る」ことだったのかな、と、ちょっと照れ臭くなりました。


『燃える水滴』
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この詩集は、感じるものは多々あれど、自分が何を感じたのかうまく言葉にできないものがとても多かったです。

「私は わたしを知らない」より
ひとは
知っているものを
信じることは
できない

(中略)

私は わたしを知らない
だから
私は わたしを
信じることができる



これはちょっとよく理解できませんね。いや、詩は頭で理解するものではなく、心で感じるものだから、それでいいのかな。

確かに感じるものはある。でもそれが何なのかわからないのがもどかしい。「私」と「わたし」。二つの私があるのがミソなんだろうか?

これからの課題として、この詩は全文を書き写して折に触れて読んでみようと思います。

そして次は、若松英輔さんの独創的すぎるほど独創的な一節で、涙がこぼれました。


「詩の歴史」より
詩の歴史とは
自分たちは ついに
何も創り出しえないことを
深く知った者たちの
沈黙の持続では
ないのか



こんな言葉を読んだら、もう何も言えませんね。何度も噛みしめたい本物のコトバです。ありがとうございました。


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若松 英輔
亜紀書房
2018-02-23





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