若松英輔さんの『本を読めなくなった人のための読書論』を読みました。

私は若松さんとは違い、忙しくて読めなくなったのではなく、病気のせいで読めなくなったのですが、タイトルを聞いて「自分のための本だ」と啓示を受けたような気がして手に取りました。


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何よりもまず、この本はデザインが素晴らしい。装丁のことではなく、1ページの行数や行間、空白の量が、私のような「本を読めなくなった人」にはとても適切な量で、とても楽に読むことができました。

それにしても、さすがは若松英輔さんですね。含蓄に富んだ言葉がとても多いです。

若松さんといえば、先日、『100分de名著』の講師として『福音書』の解説をなさってましたが、喋り方や相手の言葉の聞き方に人柄が滲み出ておられ、一度でいいからお会いしたいといま最も熱望する方です。

まず、この本のキャッチフレーズになっている、「本は、ぜんぶ読まなくていい。たくさん読まなくていい」という言葉。

思えば私の読書遍歴は「いかにたくさんの本を効率的に読むか」に縛られてきました。映画専門学校の入試面接で、映画監督の田中徳三さんから「1か月に20冊くらい読むといい」と言われ、その数を目安にしていたのです。(ノルマではない)

脚本家の夢をあきらめてからも、「できるだけたくさん読まねば」という強迫観念は消えず、月に10冊はここ最近も読んでいました。

でも、多読・速読に意味はないと若松さんは言い切ります。


「少なくとも読むことにおいて、速くできるようになることは、ほとんど意味がありません。言葉は多く読むよりも、深く感じることのほうに圧倒的な意味があるからです」

うーん、なるほど。というか、ほとんど当たり前のことですね。でも当たり前のことほど深く理解して実践するのが難しい。私は誰かの言葉に縛られず、もっと自由にならねばならない。躁うつ病なんかになったのも、実は誰かの言葉に縛られているからかもしれない。


「本が読めなくなっているとき、私たちはいままで出逢ったことのない何かの訪れを『待って』いるのかもしれないのです」

私は、まさにこの本に出逢うために、若松さんの言葉を聴くために読めなくなっていたのではないか。


「本を読む人が心を閉ざしたままでは小さな声は聞き取れません。『効率』という考え方を忘れ、読む人が心を開いたとき、書物もまた何かを語り始めるのです」

これはすごくよくわかる。読書は対話であると書かれているけれど、速読に対話はない。ただ一方的に情報を享受するだけ。やっぱり対話をしたい。私はまともにほんと対話できない状態だったわけだ。映画も見れないときがあったが(劇場にはいまだに行けない)映画との対話も無理だったらしい。

もっと心を開かないといけない。病気だから、というのは逃げ口上で、実は、映画や本や、あるいは誰か他人との対話を拒んでいるのかもしれない。

若松さんは、リルケの言葉を引いて、自分との対話が大事と言います。うーん、確かに! 最近は体調が悪いので自分との対話なんて少しもしてないなぁと猛省。いまからやります。いえ、明日からやります。ゆったりとね。


「インターネットのない時代、私たちはもっとひとりの時間の過ごし方を知っていました。私たちはひとりで、ひとつの場所を深く掘る方法を忘れてしまったのかもしれません。この本を読んでいるあなたの読む力も、そんな状態なのかもしれないのです。睡眠が心身の治癒に不可欠なように、本を読めない時間も必要だった可能性があります」

私はいま一日の半分くらい寝ていますが、本に関しても睡眠が必要だったようです。そして、この本が目を覚ましてくれるきっかけになるかもしれません。そうならずに、また眠りに落ちるのかもしれません。それならそれで起こしてくれる本を「待つ」ことにします。

さて、若松さんは、読むためには書くことが大事だと言います。


「『読む』ことと『書く』ことは呼吸のような関係です。読めなくなっているのは、吐き出したい思いが胸にいっぱい溜まっているからかもしれません」

以前の職場の同僚さんは、姑さんとのあれやこれやを新聞の人生相談に書いて送りたいと熱望するも、うまく書けなくて困っていると言っていました。何か本を読んで文章テクニックを磨いてみては? とアドバイスすると、その人は「読んでなんかいられない!」と泣きそうな顔で言ったのですが、なるほど、あれは吐き出したい思いが胸に溜まっていたからなのかと、数年たって合点がいきました。


「もう一度『読む』ことを始めるために準備していただきたいのは、誰かがすすめた『ため』になる本ではなく、何も書いていないノートと使い慣れたペンや鉛筆なのです」

「思い出してみてください。私たちは文字を書くとき、その言葉を同時に読んでいるのです。それが自分で書いたものであっても、自分以外の人が書いた言葉であっても」

なるほど、書くことが大事なのはそういうわけなのか、と、これまた合点がいきました。私も、映画や本の感想を書くとき、自分の言葉を読んでいるから、感想を書いたほうが作品の理解が深まるのはそういうわけなのですな。

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「いまを照らす一冊は、必ず次に読むべき本を静かに告げてくれるからです。本が本を呼ぶのです」

これもよくわかる! 私にとって本との出会いは中島らもさんの『しりとりえっせい』という本でした。19歳の頃、次兄と一緒に本屋へ行って「これ面白いらしいよ」と勧められたのを鵜呑みにして買って読んだところ、めったやたらに面白く、それ以後らもさんの本を読みあさり、らもさんが面白いという本を読んでいるうちに、読書の幅が広がりました。まさに『しりとりえっせい』は私にとって「いまを照らす一冊」だったわけです。それまで本なんて読んだことなかったけど、そういう本との出逢いを「待っていた」んですね。


「読書とは、自分以外の人が書いた言葉を扉にして、未知なる自分に出逢うことなのです」

そういえば、民俗学者の赤坂憲雄さんの名著というほかない『異人論序説』ってそういう内容じゃなかったっけ。「異人」の最たるものは他でもない「自分自身」だ、という結論だったような気がする。

ゆっくり読み直してみよう。


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光文社
2015-09-25



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