エイプリルフールにLGBTネタ
db6e5865

声優の高野麻里佳と高木友梨香が、昨日4月1日に、「交際と同性婚」をSNSで報告し、その後、「実はエイプリルフールでした!」と暴露したことについて、

「エイプリルフールでLGBT当事者を馬鹿にしたようなネタで遊んでいて不愉快」
「当事者はネタでやってるわけじゃない」
「カミングアウトと同性婚をネタにして笑いとして消費するってどういう感覚なんだ」
「LGBTへ理解がないばかりか、バカにする対象にしている」
「ネタにしていいものと悪いものとがある」

と非難の嵐とか。

私は、この二人(声優の世界には疎いのでどういう人たちかまったく知らないけど)を断固支持しますね。

だって、「LGBTへ理解がないばかりか、バカにする対象にしている」と言うけど、それって「バカにできる対象になるまでにLGBTは市民権を得た」ってことでしょうに。

非難する人たちは、LGBTはネタじゃないといっていて、それはそうでしょうが、この世のあらゆることは「ネタ」になりますよね。それこそ、異性婚だったらいくらでもネタにできます。ネタにしたところで誰も何も言いません。

繰り返しますが、笑いのネタにするってことは「市民権を得てきている」ということです。ちょっと前ならこんなことできなかった。5年くらい前にこんなことをやる人がいたら、私だって不快感を隠さず、180度まったく違う意見をしたためていたことでしょう。

でもこの数年で事態は大きく変わりました。私はそれまで思いもつかなかった、LGBTが普通に出てくる小説を書いたりもしました。だから、いまはこの声優二人の「ネタとしての面白さ」がわかります。いまどきエイプリルフールにこの程度の「ネタ」をやって何が悪いの? 他でもないエイプリルフールですよ?

この二人の行為を非難する人たちは、LGBTをいつまでも腫れ物として扱うべきと思ってるんでしょうか?


例えば「女性差別」
4589_ext_01_0

たとえば女性は昔も今も差別の対象ですが、いまでも思い出す逸話があります。

専門学校生時代、ある同期の女性と賭けをすることになりました。勝ったほうが5000円。でも結局、どちらも勝ったとはいえず、プラマイゼロになるという一番つまらない結末に至ったんですが、そのとき、同期生の男たちが何人も言ってきました。

「神林、おまえ、もし勝ってたら5000円取るつもりやったん? 相手は女の子やで」

私は頭を抱えました。それでは少しも「対等の関係」じゃないじゃないかと。

男が負けたら潔く払う。女が負けたら不問に付す。そのような非対称の関係は明らかに「差別」です。女を一人前の人間、一人前のプレーヤーとして見てないのです。男と対等の関係の存在とは、少しも思ってない。

それは差別だよ、と言っても、理解できる男はほとんどいませんでした。

でも、いまは、デート代も割り勘にするカップルが増えてると言いますし、昔に比べたら男女が「対等の関係」になってきたと思うんですよね。

それと同じように、LGBTという性的マイノリティの存在は認めます。でも茶化したりは絶対しません。というのは、対等の関係じゃないと思う。LGBTを自分たちより一段低い存在を見ている証拠です。今回の一件で怒っている人たちこそLGBTを差別していると思う。

私のようなヘテロセクシャル=性的マジョリティが、LGBTのような性的マイノリティを茶化す。
逆に、LGBTもヘテロセクシャルを茶化す。

これで対等。差別でも何でもない。だから、今回のことを笑ってやり過ごすだけでなく、性的マイノリティが性的マジョリティを茶化してきたときも鷹揚に笑ってやり過ごす。

そういう風通しのいい関係ができたとき、初めて「差別はなくなった」と言えるのでしょうが、はたして……?



LGBTとハラスメント (集英社新書)
松岡 宗嗣
集英社
2020-07-17




このエントリーをはてなブックマークに追加