『高橋源一郎の飛ぶ教室 ――はじまりのことば』(岩波新書)を読みました。
「飛ぶ教室」というのは2020年の春、つまりコロナ禍がまさにはじまったときですね、そのときに始まったラジオ番組で、1時間のうち半分は本の話、あと半分はゲストを招いてのトークだそうです。ラジオを聞かない私はまったく知りませんでしたが、この番組冒頭の3分間だけ、高橋源一郎さんが一人でおしゃべりをする。その3分間だけの原稿を集めたものがこの『高橋源一郎の飛ぶ教室』なんだとか。よっぽど冒頭の3分間の評判がよかったんでしょうね。実際、読んでいても印象的なエピソードやフレーズが多い。
決まりは、冒頭が「こんばんは。作家の高橋源一郎です」、最後が「それでは、夜開く学校、『飛ぶ教室』、始めましょう」。それだけ。間の3分弱は何を喋ってもいい。自由な分、難しいと思われますが、人間という不可思議な生き物について、実に作家らしい視点で綴られています。
以下に、特に気に入ったものについて愚にもつかない感想をつらつらと述べます。

「答える」
ずいぶん前に亡くなった放送作家の景山民夫さんは、大学中退後、親戚のコネで大手広告代理店に就職するも、半日自分の席に座ったあと、「お昼行ってきます」と出たっきり二度と戻ってこなかった、と。「みんながてきぱき仕事してるのを見ていたら、自分には絶対無理。到底耐えられない」と思ったと語っていたとか。
当の高橋源一郎さんも、日雇い肉体労働者の20代を終え、30代になってまともに就職活動をしたことがあるとか。最終選考に残った4人の1人だったとかで、ビッグチャンスを迎えたそうですが、志望動機を聞かれたとき、考えてきた答えが少しも口から出てくれなかったと。もちろん結果は不合格。
なぜあのときちゃんと答えられなかったのか。ちゃんと答えることで自分をごまかすことがいやだったのか。
私も景山さんや高橋さんの気持ちはわかる。わかるどころか私のほうがもっと自堕落である。
私は「立派な社会人」になるのが嫌なんじゃなく、「人間」になるのが嫌で、その気持ちをずっと大事にして生きてきた気がする。そんなもの大事にしたら生きてられないだろう、と人は言うだろうが、いろんな幸運が重なっていまだに馬齢を重ねているのであります。
昔飼っていた犬のように、決して嘘を言わず、もちろん相手の言葉の裏も読んだりせず、うれしいときはうれしい、つらいときはつらい、すべて正直に、心の赴くままに生きたい。それができないなら死んでもいい。それが正直なところ。
おそらく、家族が「なぜ仕事辞めたの?」とわからないときは、たいていこれだと思う。この会社は犬のように生きさせてくれない。そんな会社はない? それなら私はこの世界に用はない。
就活をしてても、自己アピールというのが大の苦手なんです。あれって自分を誇大広告的に飾り立てることでしょ。自分で自分の宣伝をするなんて男じゃないぜ。
「『待つ』ということ」
半世紀前、あるデモに参加したために逮捕された高橋源一郎さんは、およそ7か月もの間、拘置所で暮らしていたそうです。
唯一の楽しみは、彼女を「待つ」こと。彼女は毎週1度か2度、片道3時間もかけて来て、面会は5分か10分程度。それが無上の喜びだった。
でも保釈されて彼女に電話すると、少しもうれしそうではなく、言われたのは「待つことに疲れてしまった」。
深いショックと悲しみに包まれながら、高橋さんは何の心配もなく眠りにつこうとしている自分に気づいたそうです。「もう何も待たなくていいのだ」という安らかな気持ち。
おそらく、彼女より高橋さんのほうの疲れのほうが大きかったでしょうね。だって、彼女は自分の意思で、次いつ行くかを決められるしいつごろ会えるかわかるけど、拘置所の中の高橋さんはまったくわかりませんから。
対面の瞬間に待つことの悦びは絶頂に達するけど、今度は次の対面までの時間をひたすら待つという地獄が待っている。その瞬間が3日後なのか1週間後なのかわからないまま。会うのが悦びであって、待つのは地獄。それが7か月も。別れを告げられたのが意外なことに幸福だった。わかる気がする。
「ことばが届く」
30歳で作家を目指し始めた高橋さんは、いくら書いても無駄ではないか、自分は小説家を目指す無数の人の一人にしかすぎないのではないか、と疑心暗鬼に囚われていたそうです。
誰も読んだことのない小説を書こうとしていたからよけい孤独だったと。誰も理解してくれないのではないかと。
自分を小説へいざなったくれたのは詩人の吉本隆明さんだったので、吉本さんへ手紙を書くつもりで新作を書いた。が、佳作どまりで文芸誌にも載せてもらえず、腐っていると、何と吉本隆明が新人作家をほめちぎるみたいな企画で、高橋源一郎という無名の新人の作品をほめちぎっていて、出版が決まったと。
うーん、私はずっと自分のために書いていたからダメだったんだろうな。誰かへあてた手紙のつもりで書けばよかったのだ。意識の違い。大きな違い。
あと、自分は何者でもないという謙虚な気持ちね。私は、自分は何者かであると傲慢な気持ちで書いていた。これは大きすぎる致命的な違い。
「鏡の中の父親」
高橋源一郎さんの父親はいわゆる「昭和の父」で、酒と女に溺れ、経営していた会社をつぶし、さんざんやりたい放題したあと、母親に逃げられた。「いい気味だと思った」。父親が死んで10年ほどたったある日、歯を磨いていた際、ふと目の前の鏡を見ると、父親が立っている。いつの間にか父親と瓜二つの人間になっていた。
「そのとき、忘れていた父の記憶が瞬間的によみがえったのです。不器用ではあったが父親なりに示した子どもへの愛情、貧しくてお金がないので夜中にいきなり鍋にリンゴを入れ、砂糖で煮つめ始めた父、僕はすっかり忘れていたのに、父は僕のことを忘れていなかった。そんな気がしたのです。
親と子は一番近くにいる他人だと思います。親は子どもを理解しようとしてできず、子は親を理解しようともしません。なぜなら、子どもはいつでも、親ではなく未来を見ているからです。そして、親はその後ろから、子どもを黙って見つめるだけなのかもしれません。そして、子どもは、自分が親になって初めて、自分がそうやって見られていたことに気づくのです」
私の死んだ親父にも不器用ながら同じような面があったと思う。私は親父が死んでからずっと恨み節をつぶやいているけれど、それほど親不孝なこともないのかもしれないと思う。一方で、なぜあんな奴を思いやらねばならんのだ、という気もする。心はいまだ千々に乱れる晩冬の夕暮れでした。
「飛ぶ教室」というのは2020年の春、つまりコロナ禍がまさにはじまったときですね、そのときに始まったラジオ番組で、1時間のうち半分は本の話、あと半分はゲストを招いてのトークだそうです。ラジオを聞かない私はまったく知りませんでしたが、この番組冒頭の3分間だけ、高橋源一郎さんが一人でおしゃべりをする。その3分間だけの原稿を集めたものがこの『高橋源一郎の飛ぶ教室』なんだとか。よっぽど冒頭の3分間の評判がよかったんでしょうね。実際、読んでいても印象的なエピソードやフレーズが多い。
決まりは、冒頭が「こんばんは。作家の高橋源一郎です」、最後が「それでは、夜開く学校、『飛ぶ教室』、始めましょう」。それだけ。間の3分弱は何を喋ってもいい。自由な分、難しいと思われますが、人間という不可思議な生き物について、実に作家らしい視点で綴られています。
以下に、特に気に入ったものについて愚にもつかない感想をつらつらと述べます。

「答える」
ずいぶん前に亡くなった放送作家の景山民夫さんは、大学中退後、親戚のコネで大手広告代理店に就職するも、半日自分の席に座ったあと、「お昼行ってきます」と出たっきり二度と戻ってこなかった、と。「みんながてきぱき仕事してるのを見ていたら、自分には絶対無理。到底耐えられない」と思ったと語っていたとか。
当の高橋源一郎さんも、日雇い肉体労働者の20代を終え、30代になってまともに就職活動をしたことがあるとか。最終選考に残った4人の1人だったとかで、ビッグチャンスを迎えたそうですが、志望動機を聞かれたとき、考えてきた答えが少しも口から出てくれなかったと。もちろん結果は不合格。
なぜあのときちゃんと答えられなかったのか。ちゃんと答えることで自分をごまかすことがいやだったのか。
私も景山さんや高橋さんの気持ちはわかる。わかるどころか私のほうがもっと自堕落である。
私は「立派な社会人」になるのが嫌なんじゃなく、「人間」になるのが嫌で、その気持ちをずっと大事にして生きてきた気がする。そんなもの大事にしたら生きてられないだろう、と人は言うだろうが、いろんな幸運が重なっていまだに馬齢を重ねているのであります。
昔飼っていた犬のように、決して嘘を言わず、もちろん相手の言葉の裏も読んだりせず、うれしいときはうれしい、つらいときはつらい、すべて正直に、心の赴くままに生きたい。それができないなら死んでもいい。それが正直なところ。
おそらく、家族が「なぜ仕事辞めたの?」とわからないときは、たいていこれだと思う。この会社は犬のように生きさせてくれない。そんな会社はない? それなら私はこの世界に用はない。
就活をしてても、自己アピールというのが大の苦手なんです。あれって自分を誇大広告的に飾り立てることでしょ。自分で自分の宣伝をするなんて男じゃないぜ。
「『待つ』ということ」
半世紀前、あるデモに参加したために逮捕された高橋源一郎さんは、およそ7か月もの間、拘置所で暮らしていたそうです。
唯一の楽しみは、彼女を「待つ」こと。彼女は毎週1度か2度、片道3時間もかけて来て、面会は5分か10分程度。それが無上の喜びだった。
でも保釈されて彼女に電話すると、少しもうれしそうではなく、言われたのは「待つことに疲れてしまった」。
深いショックと悲しみに包まれながら、高橋さんは何の心配もなく眠りにつこうとしている自分に気づいたそうです。「もう何も待たなくていいのだ」という安らかな気持ち。
おそらく、彼女より高橋さんのほうの疲れのほうが大きかったでしょうね。だって、彼女は自分の意思で、次いつ行くかを決められるしいつごろ会えるかわかるけど、拘置所の中の高橋さんはまったくわかりませんから。
対面の瞬間に待つことの悦びは絶頂に達するけど、今度は次の対面までの時間をひたすら待つという地獄が待っている。その瞬間が3日後なのか1週間後なのかわからないまま。会うのが悦びであって、待つのは地獄。それが7か月も。別れを告げられたのが意外なことに幸福だった。わかる気がする。
「ことばが届く」
30歳で作家を目指し始めた高橋さんは、いくら書いても無駄ではないか、自分は小説家を目指す無数の人の一人にしかすぎないのではないか、と疑心暗鬼に囚われていたそうです。
誰も読んだことのない小説を書こうとしていたからよけい孤独だったと。誰も理解してくれないのではないかと。
自分を小説へいざなったくれたのは詩人の吉本隆明さんだったので、吉本さんへ手紙を書くつもりで新作を書いた。が、佳作どまりで文芸誌にも載せてもらえず、腐っていると、何と吉本隆明が新人作家をほめちぎるみたいな企画で、高橋源一郎という無名の新人の作品をほめちぎっていて、出版が決まったと。
うーん、私はずっと自分のために書いていたからダメだったんだろうな。誰かへあてた手紙のつもりで書けばよかったのだ。意識の違い。大きな違い。
あと、自分は何者でもないという謙虚な気持ちね。私は、自分は何者かであると傲慢な気持ちで書いていた。これは大きすぎる致命的な違い。
「鏡の中の父親」
高橋源一郎さんの父親はいわゆる「昭和の父」で、酒と女に溺れ、経営していた会社をつぶし、さんざんやりたい放題したあと、母親に逃げられた。「いい気味だと思った」。父親が死んで10年ほどたったある日、歯を磨いていた際、ふと目の前の鏡を見ると、父親が立っている。いつの間にか父親と瓜二つの人間になっていた。
「そのとき、忘れていた父の記憶が瞬間的によみがえったのです。不器用ではあったが父親なりに示した子どもへの愛情、貧しくてお金がないので夜中にいきなり鍋にリンゴを入れ、砂糖で煮つめ始めた父、僕はすっかり忘れていたのに、父は僕のことを忘れていなかった。そんな気がしたのです。
親と子は一番近くにいる他人だと思います。親は子どもを理解しようとしてできず、子は親を理解しようともしません。なぜなら、子どもはいつでも、親ではなく未来を見ているからです。そして、親はその後ろから、子どもを黙って見つめるだけなのかもしれません。そして、子どもは、自分が親になって初めて、自分がそうやって見られていたことに気づくのです」
私の死んだ親父にも不器用ながら同じような面があったと思う。私は親父が死んでからずっと恨み節をつぶやいているけれど、それほど親不孝なこともないのかもしれないと思う。一方で、なぜあんな奴を思いやらねばならんのだ、という気もする。心はいまだ千々に乱れる晩冬の夕暮れでした。

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