巷で話題になっている集英社新書『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を読みました。

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ファスト教養=テストで点を取るための勉強
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124ページに本質的な言葉が書いてあります。
「本来、「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにもかかわらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい」

よく、勉強とは「自分の知っていることのリスト」を長くすることだと勘違いしている人がいますが、まったく逆です。「自分の知らないことのリスト」を長くしていくのが本当の勉強です。

例えば、この本の巻末にもとてもたくさんの参考文献が載っています。私が読んだことあるのは『思いがけず利他』1冊のみ。あとはタイトルすら知らないものばかりです。

自分はまだこんなにたくさんの読むべき本を読んでない、知るべきことを知っていないと思い知らされるわけです。で、何か1冊読むと、そこにも膨大な参考文献が載っていて、知らないことや読むべき本が雪だるま式に増えていくのです。

「ファスト教養の隆盛は、その対極にある「グッドオールドな教養」へえの「それって役に立つの?」、つまりは「それっていくらお金を稼げるの?」という懐疑的な視線が存在しているがゆえに成立している。橋下徹のようなファスト教養隆盛を導いてきた者は、「教養(=すぐにはお金につながらないもの)への疑義」を呈し続けている」

でも、たいていの人は「知っているリスト」を長くするために勉強する。この本に書いてあるような、「新自由主義や自己責任論の台頭とファスト教養の社会への浸食」は軌を一にしているというのも間違いじゃないでしょうが、私に言わせれば、少なくとも私が中高生だった40年前から35年前くらいにすでにその萌芽はあったわけですよ。受験戦争ってファスト教養戦争ってことでしょ?

「ファスト教養の「教養と金儲けを一直線に結ぶ」発想は決して突然変異ではなく教養という概念の大きな流れの中で登場するべくして登場した(あるいは時代の変化の中で満を持して再登場した)現象ともいえるだろう」

勉強とテストで点を取ることを一直線に結ぶのが受験戦争における勉強ですよね? 私は純粋に学校で勉強することが楽しかったからそんな勉強の仕方はしたことがない。結果的に点数は取っていたけど、知的好奇心を満たすために勉強していたから、テストが終わっても忘れてないことは数多い。よく「学校で習ったことをなぜ憶えているのか」と言われるんですが、それはあなたの勉強の仕方が間違っているだけですよ、というんですが、ほとんどわかってもらえません。ファスト教養の思想は広く深く日本人の心に内面化されてしまっているのです。別にビジネスパーソンだけが内面化しているわけじゃない。


時間の概念の喪失
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若いビジネスパーソンへのインタビューで興味深かったところ。

「即効性は大事ですか?」
「大事ですね。のちのち役に立つといわれてもモチベーションが上がらないし。三、四年後の想像なんてつかない。いまの状況を改善したい気持ちが強いです」


先日、イェール大助教の成田悠輔が「老人は集団自決すべきだ」と言って世界的大炎上しましたが、彼は「自分もいずれ老人になる」というごく当たり前のことがわかってませんよね。

「皇帝(しーざー)」「黄熊(ぶう)」など、キラキラネームをつける親も、いまの赤ちゃんの我が子しか見えていません。その子がいずれは成人して、社会に出て、老人になることをまったく想像できていない。

それと同じで、ファスト教養に毒されている人たちもまた「時間の概念」を喪失してしまっていると思うのです。

「三、四年後の想像なんてできない」というところまで追いつめられているといえば聞こえがいいけど、いや、それぐらいの時間あるでしょう、と。寝る前の数分だけでもちょっと想像するだけで充分だと思うけどなぁ。

「教養を「人生を豊かにするツール」ではなく「ビジネスシーンですぐに役に立つツール=ファスト教養」として捉え直す風潮の背景にあるのは「時代が変化する中で生き残らなければならない」というビジネスパーソンの焦燥感である」

一流企業に勤める長兄もこの本を読んだらしく、会社の若手社員が同じように「スキルアップに焦っているように感じていたのでこの本を読んで腑におちた」と言っていました。

おそらく、日本人のほとんどが農業や林業とまったく関係ない生活をするようになったことが大きいような気がします。田んぼを耕すという行為はいますぐ収穫に結びつかないけど、耕さないかぎり収穫はないわけでね。林業なんて結果が出るのは数十年先です。

でも、そういう「いずれ」「いつか」という長い目で物事を見るのって大事だと思う。ってこんな当たり前のことをわざわざ言わないといけないのが悲しい。


ファスト教養=「いいとこ取り」
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私が尊敬する思想家の内田樹先生の合気道の師匠である、多田宏さんは、初心者に対し、「いいとこ取りしてはいけない」と厳しく戒めるそうです。

なぜか。

初心者には何がよくて何が悪いかがわからないから、がその答えです。いいとこ取りするにはは、何がいいか悪いかがわかっているのが前提になります。でないといいところだけ取れない。だから、初心者は絶対にいいとこ取りをせず、まずすべてを受け入れなさい、いいとこ取りしている以上、上達はない、というのが多田さんの教えだそうです。

ファスト教養は、これはいますぐ役に立つか否かと勝手に自分で判断して、すぐ役に立つものだけを読んだり勉強したりして取り入れるわけですよね。それは完全に「いいとこ取り」です。

だから、何が役に立つかとか判断せずに、人が薦めるものはとりあえず全部読んでみるとか、CDのジャケ買いみたいに、タイトルが気に入ったから買うとか、装丁がきれいだから読んでみるとか、何でもいいと思うんですよ。そして、内容をよりよく理解するために巻末に記載のある参考文献を片っ端から読む。

そう、「片っ端から」です。

私は高校を卒業するまでほとんど本というものを読んだことがなかったんですが、たまたま19歳のときに次兄と本屋へ行き、中島らもの『しりとりえっせい』という本が面白いと教えてもらって試しに読んでみたら面白かったので、らもさんの本を片っ端から読んでいきました。

いいとこ取りはしちゃだめです。だから、ファスト教養なるものも認めちゃだめ。著者は、「ファスト教養は認めざるをえない」というところから結論を導き出そうとしていますが、私は一切認めません。理由は多田先生と同じです。

著者は「そのような感情論を安易に振りかざすのはやめよう」みたいな主張をしていますが、これは感情論ではない。いたって冷静な、論理的な話です。


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