(以下の文章は、小説本編を読んでない方は絶対に読まないでください。よろしくお願いいたします)

(承前)

前回までの記事
考察①ヤラセと「人生」
考察②一人称と確定ポイント


『君のクイズ』を読み解くうえでの五つのポイントを挙げました。

①人生
②一人称 
③確定ポイント
④美学
⑤恥ずかしいという感情

4つ目の「美学」までは前回までに説明しました。いよいよ最後の「恥ずかしいという感情」についてです。


「クイズ」という夢の国
最初の記事で、「いきなりネタバレです。『本庄絆はヤラセではなく、本当に正解した』という三島の解答は間違いです」と書きました。本庄絆はどこまでもクロに近いですが、確定はできません。なのに三島は確定してしまった。

なぜでしょうか。

それはやはり、本庄絆がヤラセをやっているのか、それとも本当に正解したのか、目の前の事象を「クイズ」にしてしまったからです。

三島は桐崎さんに振られたことを回想したとき、こんなことを語ります。

「僕たちはいつでもクイズを出題され続けている。競技クイズをしている必要はない。クイズは世界のどこにでも存在している」
「世の中のほとんどのクイズには答えがない。むしろ、答えがある一部の問題だけを切りだしたものが、僕たちがやっているクイズという競技なのかもしれない」


この二つの言葉は間違っているわけではありませんが、違和感を覚えませんか?

「クイズは世界のどこにでも存在している」
「世の中のほとんどのクイズには答えがない」


世の中の様々な「問題」を「クイズ」に譬えるのがそもそもおかしいと思うのです。「クイズ」という言葉を使った瞬間、作問者がおり、その作問者は誰かに解答してほしいと思っており、もちろん解答が存在し、確定ポイントも存在する、と勘違いしてしまう。

三島はクイズの虜になってから、そのような勘違いばかりな人生を送ってきた。

この『君のクイズ』の冒頭の一文を思い出してみましょう。

「白い光の中にいた。下半身の感覚がなくて、宙に浮いているような気分だった」

三島は、地に足がついていない状態で生きているのです。

そのあと、最終問題が始まる前に、「桂枝雀」「川上哲治」「藤川球児」が正解のクイズを作問し、自分で解答するという「脳内自作自演クイズ大会」みたいなことをやっている描写が長々と続きます。

現実にはほんの10秒ぐらいの時間に、三島の脳内では三つもクイズが出題され、自ら回答し、そしておそらく、すべてを肯定してくれる「ピンポン」という音が鳴り響いていたのでしょう。

冒頭の「白い光の中にいた」の「白い光」といえば、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演した1990年の映画『トータル・リコール』を思い出します。あの映画のラストシーン、夢の中が居心地よすぎて現実に戻る気のない主人公がついに破滅する瞬間、太陽の白い光で画面がいっぱいになります。


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三島は現実を生きていません。現実をすべてクイズと見なす夢の国に生きているのです。そして『トータル・リコール』のシュワルツェネッガーと同じく、そこが居心地よすぎて戻ってこれなくなっている。


「恥」を捨てた人間の末路
桐崎さんと三島がどのような同棲生活を送っていたのか、この小説にはまったく書かれていません。

桐崎さんとクイズをきっかけに出会い、日本刀の話で盛り上がり、一緒に実物を見に行った。そして、同棲生活をした末に、彼女から同棲解消を一方的に告げられ、半年間の別居ののちに別れる。

桐崎さんは「このままではキャパ君のこと嫌いになっちゃいそうで」と言います。そして「全部私が悪いの」とだけ言って彼のもとを去ります。

このあと、三島は傷心生活を送るのですが、見かねたクイズ仲間が無理やりオンライン・クイズ大会に彼を誘います。そこで、桐崎さんと一緒に見た『響け! ユーフォニアム』が答えのクイズに正解するのですが、三島のこのときの言葉にはのけぞりました。

「僕が桐崎さんと出会ってなかったら、彼女と同棲をしていなかったら、僕は『響け! ユーフォニアム』の問題に正解することはできなかった」

何ということでしょう。彼にとっては、恋人を失うことよりもクイズに正解することのほうがよっぽど大きいことらしいのです。

「クイズが僕を肯定してくれていた。君は大事なものを失ったかもしれない。でも、何かを失うことで、別の何かを得ることもある。君は正解なんだ――クイズが、そう言ってくれているみたいだった」

こんなのは、それこそ「妄想」でしょう。「何かを失うことで別の何かを得ることもある」それ自体は間違いではないですが、恋人とクイズで正解することを天秤にかけられる神経は、もはや常人の理解の範疇を超えています。

桐崎さんが「キャパ君のこと嫌いになっちゃいそうで」」と言って別れを告げる本当の理由は、もうわかりますよね?

繰り返しますが、この『君のクイズ』は一人称小説なので、すべて三島の語りです。三島が桐崎さんとの同棲生活に何の疑問も抱いてない以上、作者はそのことを書けません。しかし、それが作者が仕掛けた「罠」だと思うのです。あまりに巧妙な罠です。ほとんどの人が、本庄絆がゼロ文字押しで正解できたことに気を取られ、競技クイズの奥深さに魅了された、なんて言ってますから。

しかし、これまで見てきたように、あのゼロ文字押しは、三島玲央という愚か者を浮き彫りにするための小道具にすぎません。

三島はおそらく、桐崎さんの言葉をちゃんと聞いていなかった。世界のすべてがクイズに見えてしまう彼にとって、桐崎さんの言葉もまた「クイズ」だったのです。

クイズである以上はどこかに「確定ポイント」が存在する。桐崎さんは本当は何が言いたいのか、すべて言い終わるうちに勝手に断定し、最後まで聞かない。それがクイズの世界の鉄則ですよね。聞いてもらえないほうはたまったものではありません。特に女性はそうでしょう。「あなたのことが嫌いになりそう」と誰だって思うはずです。同棲に及び腰だった桐崎さんを説得したときも、彼女の言葉なんか聞いてなかったのでしょう。かなり強引に話を進めたと推察します。

もともと三島は、中学のクイ研にいた頃、クイズの全文を聞いてからボタンを押していた。でも、先輩から「それではクイズに勝てない。誤答を恐れずどんどん押していけ」と言われ、「恥ずかしいという感情を捨てた」と言います。

自分の言動を省みたとき、人は「恥ずかしい」と感じます。恥ずかしいという感情を捨てたということは、彼は自分の言動を省みないということです。だから桐崎さんがなぜ自分のもとを去っていったのかが理解できないし、それ以前に深く考えることすらしない。

逆にいえば、それほどまでに、三島玲央にとってクイズはロマンをも超越した「何か」なんでしょうね。その「何か」とは、三島の言を借りれば、「人生」ということになります。

最後の五行をもう一度引用しましょう。

頭の中に、「問題――」という声が聞こえる。
「ずばり、クイズとは何でしょう」
僕はボタンを押して「クイズとは人生である」と答える。
ピンポンという音はいつまでたっても鳴らなかったが、正解だという確信があった。百パーセントの確信だった。

「ピンポンという音はいつまでたっても鳴らなかった」つまり、三島は自分の解答が正解でないとわかっているのです。わかっていながらわからなふりをして「百パーセントの確信」と言い切る。

それはやはり恥ずかしいという感情を捨てたからです。自分を省みることがなくなったからです。もはや、クイズオタクを超えて、ただの愚か者です。

いや、愚か者は我々人間すべてかもしれない。


「クイズ」と化した世界
jinsei

この画像を見て、何を感じますか? 無防備に背中を見せて遠くを見る男。何かロマンを感じますよね。もしかしたらこの人の頭の中はエッチなことばっかりかもしれないのに。

三島玲央が本庄絆に感じたのも同じようなことなのでしょう。

彼は、本庄絆がユーチューブチャンネルやオンラインサロンで稼ぐ準備をしていたことなど夢にも思わなかった。自分と同じようにクイズに魅せられた男だと思っていたのに、ぜんぜん違ったことに衝撃を受けます。

そして、それでも、「クイズとは人生である」という妄想をさらに確たるものにしていく。

「何かを知るとは、その向こうに知らないことがあると知ることなのだ」

と三島は言いますが、彼はまったく実践していません。思考停止に陥っています。

でもそれを責められる人がいるでしょうか? と作者の小川哲さんは問うているようにも思えます。

あのゼロ文字押しで優勝という不可解な決勝を見て、ヤラセを疑わないどころか、三島と本庄絆が深い友情で結ばれていると勘違いする大衆は、あの決勝を「クイズ」として見ているのです。三島と同じように、主観的に「美しい物語」に変換して陶酔しているだけです。科学的・客観的に目の前の事象を捉えようとしていない。

ワールドカップやオリンピックなどのビッグイベントが終わると、良かった点や悪かった点を検証することなく、みながみな「感動をありがとう」と連呼するのはその象徴ですよね。

私たち現代人は、もはや誰もが目の前の出来事を「クイズ」として扱っていないか。先入観や固定観念や「美しさ」の虜になっていないか。

陰謀論がはやるのもそういうことだと思うし、ワイドショーではよくわからない問題に対し、即答できる人間がもてはやされます。即答できないと相手から「はい、論破」と言われ、負けたと見なされます。相手の言葉をじっくり聞くことなく、さえぎってでも自分の言いたいことを言う。三島が考える「美しい早押し」とは、まさにそのことではないでしょうか。

もはや、この世界自体が狂っているのです。三島玲央という愚か者を通して、我々自身が批判されていると感じます。

この小説は一人称で書かれていますが、タイトルだけ二人称の「君」が使われています。

「ずばり、クイズとは何でしょう?」

あなたにとってクイズとは何か。あなたはこの世界をどう見ているのか。

私たち自身の「人生」が問われています。(おわり)


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