昨日、驚くべきニュースを見ました。
おそらく、ツイッターなど何らかのSNSをやる人なら知っているであろう「ねこホーダイ」。
悪魔の所業「ねこホーダイ」
何でもこれは猫のサブスクとかで、月額380円を払えば、好きなときに猫を借りてきて、いらなくなったら返していいというサービスだそうです。
これに対して、「命の軽視」「ペットに癒されたいなら最初から最後まで面倒見ろ」と大炎上。
そりゃ当然でしょうね。
カントの有名な定言命法「汝の他者をただ手段としてのみならず、同時に目的として扱え」がありますが、都合のいいときだけ猫に癒してもらおう、なんていうのは、ただ猫を「手段」としてしかあつかっていないということです。「目的」として扱うとは、この場合は、その猫の生涯の面倒を見る、自分のための道具としてではなく、猫の幸せを考えるということです。
「ねこホーダイ」は本当に悪魔の所業と言ってもいい問題なので、私もやめてほしいという署名運動に賛同しました。でも、ほとんど言いたいことは他の人たちが言ってくれているし、私がさらに何かを付け加えることはありません。
付け加えるなら、私たちは「ねこホーダイ」と同じ悪魔の所業を無意識に行っている、ということです。
カントの言葉を引用したのはそのためです。
飼い犬に避妊手術を施した件
私の実家では柴犬を飼っていました。(なので上の画像はよその犬です。検索して拾ってきた画像です)
私が子どもの頃に一匹。大人になってから新しく一匹。両方ともメスです。
古いほうの犬が、春の発情期になるとキャンキャン泣きわめくし、生理で出た血の匂いでオスが寄ってくるし、何よりほとんど家の中にいたので、絨毯や畳が血だらけになり、掃除をする母親が大変な思いをしていました。
そこで、二匹目の犬には避妊手術を施したのです。親父は「人間のエゴ」と何度も言っていました。その通りです。私は人間の身勝手な理由でそういうことするのはいかがなものか、とは思ったけれど、養われていた身だし、手術費用を負担することもないし、そもそもその犬は両親が買ってきた犬なので、私には何の発言権もない。黙認しました。
だから、二匹目の犬は、性の快楽とか幸せとかそういうことを最初から知らないで死んだのです。もしそれが自分だったらと思うとゾッとします。
確かに避妊手術を施したほうが血も出ないし飼いやすい。でもそれは飼い主の手前勝手な都合であって、カントの言葉を借りれば「手段」としてしか扱っていないということです。犬の幸せを奪ったのですから。
最近は、犬や猫に避妊手術する人のほうがはるかに多いらしいので、「ねこホーダイ」に対して義憤にかられている犬猫の飼い主さんたちも、ほとんどが「ねこホーダイ」と同じ悪魔の所業を犯していることにはもっと自覚的であったほうがいいと思います。
「いただきます」を言う理由
(私が先月作った具だくさんのお味噌汁)
もうだいぶ以前のことですが、職場の人と喋っていたとき、何の話だったか忘れましたが、私が、
「食べ物って、自分以外の生き物の死骸じゃないですか」
と言ったんですよね。すると、周りの人がものすごい拒否反応を示しました。「そんなこといわないでほしい」と。
あなたたちは間違っている! 私は怒鳴りました。
牛や豚や鶏、また、いろんな植物の死骸を私たちは食べているというまぎれもない事実から目をそらすべきではない。生き物そのものの肉体を食べているわけだし、牛乳はもともと牛の血液から作られます(人間のお母さんのお乳だって元は血液です)。牛が命を削って絞り出した血を私たちは飲んでいるんです。その冷厳な事実から目をそらすのは絶対的に間違っています。
食べる前に「いただきます」と言うのは、自分のために命を捧げてくれた動植物のために言う言葉です。私たちはそれを忘れていないでしょうか?
職場の同僚さんたちはみんな忘れていたようです。おそらく現代社会ではほとんどの人が忘れているのでしょう。
それもまた、動植物を、自分が生き延びるため、健康を維持するため、おいしいものを食べて満足するための「手段」としてしか扱っていないということです。もう死んだ命だから、ペットのように彼らが幸せに生きるように、つまり「目的」として扱うことは不可能です。
だから、せめて、食べる前に「いただきます」と感謝の気持ちを捧げるべきだと思うのです。
人間は食物連鎖の頂点に立っているから忘れていますが、この世は弱肉強食。強い生き物が弱い生き物を食べ、さらに強い生き物が食べ……という循環を繰り返しています。
我々はそういう生態系の一部であることを忘れて、ただ「ねこホーダイ」だけを責めても片手落ちもいいところです。
実家の犬はもう死にました。あの子を「目的」として扱うのはもう不可能です。毎日のようにあの子を思い出して語ってやることがせめてもの罪滅ぼしだと思っています。
そして、目の前の食べ物に感謝すること。食べ物は他の生き物が差し出してくれた命だということ。
「ねこホーダイ」を非難するなら、せめてそれぐらいのことはしたほうがいい。いや、しなきゃいけない。というのが私の主張です。
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「いただきます」は呪文である件
おそらく、ツイッターなど何らかのSNSをやる人なら知っているであろう「ねこホーダイ」。
悪魔の所業「ねこホーダイ」
何でもこれは猫のサブスクとかで、月額380円を払えば、好きなときに猫を借りてきて、いらなくなったら返していいというサービスだそうです。
これに対して、「命の軽視」「ペットに癒されたいなら最初から最後まで面倒見ろ」と大炎上。
そりゃ当然でしょうね。
カントの有名な定言命法「汝の他者をただ手段としてのみならず、同時に目的として扱え」がありますが、都合のいいときだけ猫に癒してもらおう、なんていうのは、ただ猫を「手段」としてしかあつかっていないということです。「目的」として扱うとは、この場合は、その猫の生涯の面倒を見る、自分のための道具としてではなく、猫の幸せを考えるということです。
「ねこホーダイ」は本当に悪魔の所業と言ってもいい問題なので、私もやめてほしいという署名運動に賛同しました。でも、ほとんど言いたいことは他の人たちが言ってくれているし、私がさらに何かを付け加えることはありません。
付け加えるなら、私たちは「ねこホーダイ」と同じ悪魔の所業を無意識に行っている、ということです。
カントの言葉を引用したのはそのためです。
飼い犬に避妊手術を施した件
私の実家では柴犬を飼っていました。(なので上の画像はよその犬です。検索して拾ってきた画像です)
私が子どもの頃に一匹。大人になってから新しく一匹。両方ともメスです。
古いほうの犬が、春の発情期になるとキャンキャン泣きわめくし、生理で出た血の匂いでオスが寄ってくるし、何よりほとんど家の中にいたので、絨毯や畳が血だらけになり、掃除をする母親が大変な思いをしていました。
そこで、二匹目の犬には避妊手術を施したのです。親父は「人間のエゴ」と何度も言っていました。その通りです。私は人間の身勝手な理由でそういうことするのはいかがなものか、とは思ったけれど、養われていた身だし、手術費用を負担することもないし、そもそもその犬は両親が買ってきた犬なので、私には何の発言権もない。黙認しました。
だから、二匹目の犬は、性の快楽とか幸せとかそういうことを最初から知らないで死んだのです。もしそれが自分だったらと思うとゾッとします。
確かに避妊手術を施したほうが血も出ないし飼いやすい。でもそれは飼い主の手前勝手な都合であって、カントの言葉を借りれば「手段」としてしか扱っていないということです。犬の幸せを奪ったのですから。
最近は、犬や猫に避妊手術する人のほうがはるかに多いらしいので、「ねこホーダイ」に対して義憤にかられている犬猫の飼い主さんたちも、ほとんどが「ねこホーダイ」と同じ悪魔の所業を犯していることにはもっと自覚的であったほうがいいと思います。
「いただきます」を言う理由
(私が先月作った具だくさんのお味噌汁)
もうだいぶ以前のことですが、職場の人と喋っていたとき、何の話だったか忘れましたが、私が、
「食べ物って、自分以外の生き物の死骸じゃないですか」
と言ったんですよね。すると、周りの人がものすごい拒否反応を示しました。「そんなこといわないでほしい」と。
あなたたちは間違っている! 私は怒鳴りました。
牛や豚や鶏、また、いろんな植物の死骸を私たちは食べているというまぎれもない事実から目をそらすべきではない。生き物そのものの肉体を食べているわけだし、牛乳はもともと牛の血液から作られます(人間のお母さんのお乳だって元は血液です)。牛が命を削って絞り出した血を私たちは飲んでいるんです。その冷厳な事実から目をそらすのは絶対的に間違っています。
食べる前に「いただきます」と言うのは、自分のために命を捧げてくれた動植物のために言う言葉です。私たちはそれを忘れていないでしょうか?
職場の同僚さんたちはみんな忘れていたようです。おそらく現代社会ではほとんどの人が忘れているのでしょう。
それもまた、動植物を、自分が生き延びるため、健康を維持するため、おいしいものを食べて満足するための「手段」としてしか扱っていないということです。もう死んだ命だから、ペットのように彼らが幸せに生きるように、つまり「目的」として扱うことは不可能です。
だから、せめて、食べる前に「いただきます」と感謝の気持ちを捧げるべきだと思うのです。
人間は食物連鎖の頂点に立っているから忘れていますが、この世は弱肉強食。強い生き物が弱い生き物を食べ、さらに強い生き物が食べ……という循環を繰り返しています。
我々はそういう生態系の一部であることを忘れて、ただ「ねこホーダイ」だけを責めても片手落ちもいいところです。
実家の犬はもう死にました。あの子を「目的」として扱うのはもう不可能です。毎日のようにあの子を思い出して語ってやることがせめてもの罪滅ぼしだと思っています。
そして、目の前の食べ物に感謝すること。食べ物は他の生き物が差し出してくれた命だということ。
「ねこホーダイ」を非難するなら、せめてそれぐらいのことはしたほうがいい。いや、しなきゃいけない。というのが私の主張です。
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