対照的な青春映画を見ました。三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』と、デビッド・ロウリーの妻でオーガスティン・フリッゼルという監督の『ネバー・ゴーイン・バック』。(以下どちらの作品もネタバレしてます)


『ケイコ 目を澄ませて』(2022、日本)
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脚本:三宅唱&酒井雅秋
監督:三宅唱
出演:岸井ゆきの、三浦友和、三浦誠己、松浦慎一郎、仙道敦子、中島ひろ子、渡辺真起子


『ネバー・ゴーイン・バック』(2018、アメリカ)
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脚本・監督:オーガスティン・フリッゼル
出演:マイア・ミッチェル、カミラ・モローネ、カイル・ムーニー


『ケイコ』は好きになれない
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『ケイコ 目を澄ませて』はえらく絶賛されてますけど、私は好きになれなかった。

確かに、岸井ゆきのをはじめ、最近やたらいい味出してる三浦友和や、別人のように変わってしまった仙道敦子など、役者はすごくいいと思います。特に、ミットを使った練習が白眉ですよね。編集なしで一連のアクションをごまかさずに見せる。相当練習を積まないとできないはずで、あのショットには「時間の厚み」を感じるし、あれ以外でも、全体的に役者の肉体の躍動には瞠目しました。

それから、コロナ禍でのマスクが、聾啞者には唇が読めずかなり困る、という聾啞でない者にはまったく知らなかったことを教えてくれたことに感謝します。この映画を見なかったら、そんなこと一生知らないままだった。

しかしながら、主役のケイコがいったい何をしたいのかよくわからないんですよね。

ついに三浦友和会長へ渡せなかった「一度お休みしたいです」という手紙。なぜ休みたいと思ったのか。ジムの閉鎖を知ったらまた本気で動き出す。でも、仙道敦子が読む彼女の日記には、ジム閉鎖の報を受けた彼女の「許せない」という強い言葉が書かれている。

許せないのは会長のこと? 会長が許せないなら、なぜまたリングへ上がるのか。それとも、許せないというのは、一目置いている会長が父親から受け継いだジムを閉めざるをえなくなった状況への怒り? よくわからない。

そもそも、ケイコはなぜプロボクサーになりたいと思ったんでしょうか。最後の試合で足を踏まれたあとにTKOで負けたけど、その相手から「ありがとうございました」と言われる。そのとき彼女は何を思ったのか。映画は何も示さず、曖昧なまま終わります。

解釈を観客にゆだねすぎじゃないですかね? 必要最小限の情報は提示してくれないと主人公を応援する気になれない。

それに、音が聞こえない人を描くにあたって、健聴者の観客に対して音を響かせてもあまり意味がないような。『コーダ あいのうた』みたいに、ほんの数秒でもいいから、無音のシーンを挿入すべきではなかったか。音がない世界とはどういうものか、感じさせてほしかった。でないと主人公に同化できないですよ。


『ネバー・ゴーイン・バック』の二人
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同化できないといえば、この二人も五十歩百歩なんですがね。旅行へ行こうと盛り上がったルームメイトの二人の女の子が、家賃を旅費に充ててしまい、ウェイトレスのバイトに励もうとするも、店長からシフトを減らされる。腐っていると、ひょんなことから警察にドラッグを発見されてしまい、逮捕される。

この二人の無軌道ぶりはなかなかのもので、バイトを早退するために牛乳を大量に飲んで「お腹が気持ち悪いので」と店長に言おうとしたら二人一緒に豪快に吐いたりと、若さゆえのバカっぷりが清々しい。笑える。

最後には、ある店の超変態店長から逃れるために掃除用具置場に隠れた二人のうち一人が下痢になり、バケツに脱糞、もう一人は超変態の奇行を見て気持ち悪くなってその変態店長に向かってゲロを吐いたら彼は気絶してしまい、誰もいないのをいいことに店長の鍵で金庫を開け、大金をせしめる。(この結末は、劇中で言及されていた『ブギーナイツ』のドン・チードルのエピソードのパクリですよね)

というふうに、感情移入はできないけど、愚行ばかり犯している二人には好感をもってしまう。ゲロとかウンコとか、普段はそういう下ネタには厳しい目を向けてしまう私も、不思議とこの映画ではゲラゲラ笑ってしまった。

ゲラゲラ笑うといえば……


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『ケイコ』の岸井ゆきのはあまり笑わないですよね。友だちが訪ねてきたときに笑顔を見せていたけど、爆笑したりしない。怒ったり、つっけんどんな態度を見せたりはするし、リング上では激怒したりするけど、基本的に喜怒哀楽をあまり見せない。


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対照的に『ネバー・ゴーイン・バック』の二人は喜怒哀楽が激しい。何も考えずにはしゃぎまくる彼らには「青春」という言葉がよく似合う。

役者の力量や、監督の演出力では、圧倒的に『ケイコ』のほうが上でしょう。匂い立つような肉体や顔の造形は素晴らしい。

しかしながら、すごくうまく撮ってるけど、うまいだけというか、私はかつて桂千穂さんに自作シナリオを送ったところ、

「とてもうまく書かれているけど、あなたの体臭が感じられません」

と言われたことがあるんですが、『ケイコ』にも似たことを感じます。肝心のケイコの体臭が感じられない。


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一方、稚拙とはいえ、『ネバー・ゴーイン・バック』では、役の感情が、その役を演じる役者の肉体を突き破る勢いがありました。周りの男もアホばっかりでアホしか出てこない映画だけど、すべてのキャラクターに体臭を感じました。

結局主役の二人が何をしたいのかわからないのは『ケイコ』と同じです。でも『ケイコ』では主人公は自分の目的が何かわかっているはずなのに映画がそれを示してくれなくてイライラするのに対し、『ネバー・ゴーイン・バック』では、「主人公たち自身が自分たちの目的や目標が何かわかってないことがよくわかる」んですよね。昔は自分もバカだったから、何も考えずに快不快の原則だけで生きてたなぁ、なんて。いまもあまり変わらないけど。

だから私は『ネバー・ゴーイン・バック』は好きだけど、『ケイコ 目を澄ませて』は好きになれないのです。キャラクターの喜怒哀楽を描くことより、「映画」であることを気取ることを優先させている感じがするというか。(フレデリック・ワイズマンの『ボクシング・ジム』を想起すると言ってた人がいたけど、そういうことだと思うんですよ。ワイズマンも「映画」を気取ってますから。『ボクシング・ジム』は好きだけど)

確かに岸井ゆきのや三浦友和の色気は感じます。でも、ケイコという「役柄の色気」はついに感じられなかった。岸井ゆきのの肉体を突き破ってケイコが表出する瞬間がないんですよね。岸井ゆきのはいい役者だなとは強烈に感じます。でもケイコという架空の人物に惚れてしまう瞬間がなかった。岸井ゆきのが「ケイコを演じている岸井ゆきの」にしか見えないのです。役者の色気を撮ろうとするあまり、キャラクターの描き込みが足らないように感じました。

役者と役者が演じる役柄が重なり、役者という見える存在の内に、架空のキャラクターという見えない存在が見える。それが言葉の本当の意味での「映画」だと思うんですがね。

少しも気取らず、作中人物に惚れさせてくれた『ネバー・ゴーイン・バック』を私は買います。





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