臨床心理士・東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)を読みました。
「聴く」ではなく「聞く」こと、そして「聞いてもらう」ことの重要性を訴えた、とても新鮮で貴重な良書だと思いました。

「聞く」と「聴く」
著者は、「聞く」と「聴く」では「聞く」のほうが難しいという主張から本書を始めます。
え? と思いますよね。「聴く」は音楽を聴くとか傾聴とか、音や声をじっくり聴く、つまり能動的な行動だとされていますから。逆に「聞く」は受動的。
だから、ごく普通に考えれば「聴く」ほうが難しいと思うじゃないですか。
でも、と臨床心理士の著者は言います。
「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること、「聴く」は語られていることの裏側にある気持ちに触れること。
具体的に言うと、「愛している」と言われて「遺産目当てじゃないか」と勘繰ったり、「あなたの言葉に傷ついた」と言われて、「でも君にも問題があるよ」と思ったり、というのは、能動的に「聴く」からこそ生まれる負の感情なんだと。
そうじゃなくて、言っていることを真に受けてほしい、それが「ちゃんと聞いて」という訴えの内実なんだと。
主治医の「聞く」

私は亡父との葛藤が原因で精神科にかかっていますが(父が死んだため薬が減りつつあるのがうれしい)とにかく、父も母もこちらの言うことを聞いてくれない。何かを言ってもすぐ否定される。「ちゃんと聞いて」と何度思ったか知れない。
それとは対照的に、主治医(現在胃ガンで入院中。おそらく医者としての復帰は無理でしょう)は専門家だけあって「聞く」ことに長けていました。
この本の「聞く技術 小手先編」で紹介されている「奥義オウム返し」を使うのがうまかったですね。
「~~と思うんです」「~~と思うんやね」
「○○がつらいんです」「○○がつらいんやね」
と、ほんとにそのまんま繰り返すだけ。でも、こちらの言葉を受け止めてくれているとわかるだけでもかなり心の負担が減りました。だから私は全幅の信頼を置いていた。だから何でも話した。父は「なぜあの医者にばかり言うのか。なぜあの医者の言うことを聞くのか」と怒っていたけど、そりゃあんたが俺の話を聞いてくれないからだよ、と思ってました。言ったらまた激昂するから言わなかったけど。
よく言うじゃないですか。言いたいことを聞いてもらうためには、まず自分が聞き上手にならないと、って。
著者も言います。「聞かずに語った言葉は聞かれない」と。
「郵便局行ってくるね」「行ってらっしゃい」
「ちょっと疲れてるんだ」「早めに寝なよ。食器洗っておくから」
こういう何でもない「聞く」のことを著者は「環境としての母親」と言います。
母親(正確には家事をする人)が正常に働いていれば、つまり、家に帰れば食べるものが用意されていて、服は全部洗濯されて畳まれており、部屋はきれいに掃除されている、そういう状態なら誰も「母親」を意識しない。それが「環境としての母親」。
母親が機能していないと「お母さん、靴下どこ?」と、「対象としての母親」を求めてしまう。
「聞く」という行為は、まさに「環境としての母親」で、家族間や友人間でうまく機能していれば誰も意識しない。呼吸と同じで、過呼吸など機能不全に陥って初めてそれが意識される。
著者の最終的な主張

著者はこの本の最後のほうで、次のような主張をします。
「僕らは一人では孤独に耐えられない。誰かが隣にいなくてはならない。隣に誰もいず、聞いてくれる人がいなければ人は「孤立」してしまう。僕らが話を聞けなくなってしまうのは孤立しているとき。つまり自分の話を聞いてもらえないときだ」
「聞くためには聞いてもらわなければならない。聞いてもらうためには聞かなくてはならない」
「聞くが先か、聞いてもらうが先か。ぐるぐるぐるぐる循環する運動。それこそが「聞く」の本質だ」
「そして「聞く」と「聞いてもらう」が循環するためには、社会に聞く人と聞いてもらう人の両方がちゃんと存在し、お互いの存在に気づかなくてはならない」
「聞く技術の本質は、聞いてもらう技術を使ってモジモジしている人に「何かあった?」と声をかけること」
「聞いてもらう技術の本質は、「何かあった?」と聞いてくれそうな人に「ちょっと聞いて」を声をかけること」
なるほど、当たり前の話ですが、その当たり前が当たり前でなくなってしまったのが現代社会ということなのでしょう。
とにかく異質なもの、自分の理解が及ばないものは片っ端から排除しようという世の中ですからね。私は聞く耳をもたない父親との葛藤に苦しんだけれど、いまや、この社会そのものが誰にも聞く耳をもたなくなってしまった。
最近、道を訊かれることが少なくなったけど、私も「何かあった?」と聞いてあげる姿勢が欠けているのかな。でも先日は姫路から歩いてきたという人にお金を恵んであげた。あれはいいことをした。でも、最近は「おにぎり買うお金がほしい」と言われたら途端に聞く耳を閉ざす人ばかりなんでしょうな。
いろんな人がいていいはずなのに、特殊な人は排除する。
いろんな意見があっていいはずなのに、自分と違う意見の人はブロックする。
最後に、著者の温かい言葉を紹介してこの記事を終えましょう。
「やさしくされることでしか、人は変われないし、回復できません」

「聴く」ではなく「聞く」こと、そして「聞いてもらう」ことの重要性を訴えた、とても新鮮で貴重な良書だと思いました。

「聞く」と「聴く」
著者は、「聞く」と「聴く」では「聞く」のほうが難しいという主張から本書を始めます。
え? と思いますよね。「聴く」は音楽を聴くとか傾聴とか、音や声をじっくり聴く、つまり能動的な行動だとされていますから。逆に「聞く」は受動的。
だから、ごく普通に考えれば「聴く」ほうが難しいと思うじゃないですか。
でも、と臨床心理士の著者は言います。
「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること、「聴く」は語られていることの裏側にある気持ちに触れること。
具体的に言うと、「愛している」と言われて「遺産目当てじゃないか」と勘繰ったり、「あなたの言葉に傷ついた」と言われて、「でも君にも問題があるよ」と思ったり、というのは、能動的に「聴く」からこそ生まれる負の感情なんだと。
そうじゃなくて、言っていることを真に受けてほしい、それが「ちゃんと聞いて」という訴えの内実なんだと。
主治医の「聞く」

私は亡父との葛藤が原因で精神科にかかっていますが(父が死んだため薬が減りつつあるのがうれしい)とにかく、父も母もこちらの言うことを聞いてくれない。何かを言ってもすぐ否定される。「ちゃんと聞いて」と何度思ったか知れない。
それとは対照的に、主治医(現在胃ガンで入院中。おそらく医者としての復帰は無理でしょう)は専門家だけあって「聞く」ことに長けていました。
この本の「聞く技術 小手先編」で紹介されている「奥義オウム返し」を使うのがうまかったですね。
「~~と思うんです」「~~と思うんやね」
「○○がつらいんです」「○○がつらいんやね」
と、ほんとにそのまんま繰り返すだけ。でも、こちらの言葉を受け止めてくれているとわかるだけでもかなり心の負担が減りました。だから私は全幅の信頼を置いていた。だから何でも話した。父は「なぜあの医者にばかり言うのか。なぜあの医者の言うことを聞くのか」と怒っていたけど、そりゃあんたが俺の話を聞いてくれないからだよ、と思ってました。言ったらまた激昂するから言わなかったけど。
よく言うじゃないですか。言いたいことを聞いてもらうためには、まず自分が聞き上手にならないと、って。
著者も言います。「聞かずに語った言葉は聞かれない」と。
「郵便局行ってくるね」「行ってらっしゃい」
「ちょっと疲れてるんだ」「早めに寝なよ。食器洗っておくから」
こういう何でもない「聞く」のことを著者は「環境としての母親」と言います。
母親(正確には家事をする人)が正常に働いていれば、つまり、家に帰れば食べるものが用意されていて、服は全部洗濯されて畳まれており、部屋はきれいに掃除されている、そういう状態なら誰も「母親」を意識しない。それが「環境としての母親」。
母親が機能していないと「お母さん、靴下どこ?」と、「対象としての母親」を求めてしまう。
「聞く」という行為は、まさに「環境としての母親」で、家族間や友人間でうまく機能していれば誰も意識しない。呼吸と同じで、過呼吸など機能不全に陥って初めてそれが意識される。
著者の最終的な主張

著者はこの本の最後のほうで、次のような主張をします。
「僕らは一人では孤独に耐えられない。誰かが隣にいなくてはならない。隣に誰もいず、聞いてくれる人がいなければ人は「孤立」してしまう。僕らが話を聞けなくなってしまうのは孤立しているとき。つまり自分の話を聞いてもらえないときだ」
「聞くためには聞いてもらわなければならない。聞いてもらうためには聞かなくてはならない」
「聞くが先か、聞いてもらうが先か。ぐるぐるぐるぐる循環する運動。それこそが「聞く」の本質だ」
「そして「聞く」と「聞いてもらう」が循環するためには、社会に聞く人と聞いてもらう人の両方がちゃんと存在し、お互いの存在に気づかなくてはならない」
「聞く技術の本質は、聞いてもらう技術を使ってモジモジしている人に「何かあった?」と声をかけること」
「聞いてもらう技術の本質は、「何かあった?」と聞いてくれそうな人に「ちょっと聞いて」を声をかけること」
なるほど、当たり前の話ですが、その当たり前が当たり前でなくなってしまったのが現代社会ということなのでしょう。
とにかく異質なもの、自分の理解が及ばないものは片っ端から排除しようという世の中ですからね。私は聞く耳をもたない父親との葛藤に苦しんだけれど、いまや、この社会そのものが誰にも聞く耳をもたなくなってしまった。
最近、道を訊かれることが少なくなったけど、私も「何かあった?」と聞いてあげる姿勢が欠けているのかな。でも先日は姫路から歩いてきたという人にお金を恵んであげた。あれはいいことをした。でも、最近は「おにぎり買うお金がほしい」と言われたら途端に聞く耳を閉ざす人ばかりなんでしょうな。
いろんな人がいていいはずなのに、特殊な人は排除する。
いろんな意見があっていいはずなのに、自分と違う意見の人はブロックする。
最後に、著者の温かい言葉を紹介してこの記事を終えましょう。
「やさしくされることでしか、人は変われないし、回復できません」


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