beggar (1)

数日前に、乞食にお金を恵みました。

突然、声をかけられ、大阪はどっちの方角ですか? と訊いてくる。

「大阪? 大阪はあっちですけど、歩いていくんですか?」
「ええ」
「めちゃくちゃ時間かかりますよ」
「いやもう姫路からずっと歩いてきてるし」
「姫路から!?」
「それが財布を落としてもうてね。いくつか交番にも駆け込んだんやけど、身分証がないとダメとか言われて」
「うーん、、、まぁ大阪はあっちですけどね」
「そうですか。ありがとう。あ、ちょっと待って。申し訳ないけどおにぎり1個買いたいんでお金もらわれへんやろか」

もしやこれは新手の詐欺かな、とは思ったものの、200円上げました。いまとなってはお茶代も追加してあげればよかったかな、とは思うけど、水ならトイレでも飲めると自分を納得させています。

思い出しました。私はまったく同じようなことを26年前にシチリアで経験していたのでした。

ミラノの兄の家から独りで飛行機に乗ってシチリアの州都パレルモに行きました。『ゴッドファーザー』のヴィトーやマイケルの故郷がどんなところかこの目で見たかったのです。

パレルモ駅の公衆電話で実家に兄の家に電話をかけようとしたら、同じくらいの年齢の青年が近寄ってきました。

向こうは日本語が喋れず、こちらはイタリア語がわからない。そこで青年は英語なら通じるかも、と片言の英語で話してきました。(イタリア語は日本語と同じで母音がアイウエオしかないので、イタリア人の英語は聞き取りやすい)

「電話をかけたいんだけどお金がない」

と言われても……。騙し取ろうとしてるんじゃないの? だって顔が半笑いだし。

しかし、イタリア語で何と言っていいかわからず、500リラだけ上げました。(日本円で35円ほど)

青年は薄ら笑いを浮かべて去っていったので、あれは間違いなく詐欺でしょう。でもまぁ35円くらいいいや、とあきらめました。いまとなっては笑えるいい思い出です。

シチリアといえば、見るからにボロボロの服を着た5歳くらいの乞食の女の子もいました。向こうの乞食は日本の乞食と違い、やたらエネルギッシュなんです。

金を入れるための空き缶をジャラジャラ鳴らせて、こちらの口元までそれを突きつけて要求するのです。

「金あるんだろ。くれよ」

とは言わないけれど、持つ者は持たざる者に施して当然、みたいな迫力があって、面白かった。その子にも500リラ上げました。

この話を日本に帰ってから友人たちにすると、「おまえ、めぐんだんか!?」とやたら非難されました。

貧しい人間に施すことは「悪いこと」らしい。それは『うしろめたさの人類学』という本にも書いてある通り、客観的な悪ではなく、主観的に何となくうしろめたいという気分が底流しているからのようです。

同時に、詐欺かもしれないじゃないか、とも言われました。おまえ、騙されたんだぞ、と。

大阪を目指しているというオッチャンに200円恵んだときに、あのときの友人たちの声が聞こえました。でも私はお金を上げた。

そりゃ詐欺かもしれない。でも本当にお腹ペコペコで困っているのかもしれない。シチリアの電話代を乞うてきた青年と違い、あのオッチャンは見るからに困ってそうな顔をしていました。

演技かもしれない。本当かもしれない。わからない。

そのとき、私の脳裡にこだましたのは、現在放送中の長澤まさみ主演『エルピス』のカラオケのシーンでした。

正義を貫こうとした長澤まさみや眞栄田郷敦や岡部たかしが異動になり、番組は打ち切り。その打ち上げの席で、長澤まさみと眞栄田郷敦は海援隊の『贈る言葉』を歌ったのでした。


nagasawa (1)

「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい」

テレビ局の上層部を信じて傷ついた。そこに後悔はないと自らを鼓舞する。歌詞の内容と物語の内容が見事にマッチしていました。

歌は、こう続きます。

「求めないでやさしさなんか 臆病者の言い訳だから」

この部分はいろんな解釈があるでしょうが、私が200円恵んであげたときの状況、そして過去の友人たちの非難の声を重ねるなら、「乞食に恵んでやるのは、決してやさしさゆえではない。うしろめたさを感じてもなお恵むのは、ひとえに、恵まなかったときに後悔したくないからだ」ということに尽きます。

もしあのオッチャンの言葉が嘘でなかったら、私はものすごく非道なことをしたことになる。それはいやだ。だから恵んだ。

つまり、私は自分のために200円上げたのです。

そういえば、国境なき医師団に寄付を初めて20年以上になりますが、あれも自分のためです。

寄付を始めるちょっと前に自殺を図った私は、友人からひどく怒られ、二度とそういうことをしなくてすむように真剣に考えろと言われました。

考えた結果、寄付を始めました。

1000円あればアフリカでは子どもの食糧が1か月分買えるそうです。私が寄付し続ければ確実に一人救える。死んで寄付できなくなれば確実に一人死ぬ。それを考えれば死ぬことをためらうかもしれない。

と友人には説明したんですが、そんなものは何の役にも立たないとも思っていました。本当に死にたくなったら寄付してようが何だろうが死にますから。意味がない。ただ対外的に何かしないとまずいから始めただけ。

つまり私の寄付は利己的なのです。それでいいのです。

詐欺かどうかわからなくなったら、「信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つくほうがいい」を思い出せばいい。

自分がやっていることは結局自分のためではないかと不安になったら、「求めないでやさしさなんか 臆病者のいいわけだから」を思い出せばいい。

やさしいから施すわけじゃない。施すのは自分のため。まさに情けは人の為ならず。そんなこともできない奴は「臆病者」とせせら笑ってやればいいのです。


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松村圭一郎
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