エイドリアン・ブロディがプロデュース業に進出した『クリーン 殺し屋の献身』を名画座で見てきたんですが、これが久々の本格的フィルムノワールで狂喜乱舞しました。(以下ネタバレあります)

エイドリアン・ブロディはプロデューサーだけでなく、監督と共同で脚本も執筆し、作曲も担当するなど、なかなかの才人なんですね。アカデミー賞受賞時に、ハル・ベリーに役得と称してブチューとやるだけの男じゃなかったんだ。(あれからもう20年か)


『クリーン ある殺し屋の献身』(2021、アメリカ)
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脚本:ポール・ソレット&エイドリアン・ブロディ
監督:ポール・ソレット
出演:エイドリアン・ブロディ、グレン・フレシュラー、リッチー・メリット、チャンドラー・アリ・デュポン


主人公のナレーション
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配給会社と製作会社のロゴが出たあと、すぐ『CLEAN』と原題が素っ気なく出て、ブルース調の歌とともにオープニングクレジットが始まります。これだけでグッとくるんですが、それが終わると、夜の湿っぽい町の描写とともに、主役エイドリアン・ブロディの「いくらこすったところで過去を洗い流すことはできない」みたいなナレーションが入ります。

これはもう本物のフィルムノワールですよね。音楽も、夜の映像も、ナレーションも、すべてが「この映画はフィルムノワール」だと叫んでいるかのようです。

映画評論家の加藤幹郎さんの著書『映画ジャンル論』によると、「フィルムノワールは主人公のナレーションで始まるジャンル」らしく、確かに『ギルダ』も『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ヴィスコンティでもボブ・ラフェルソンでもなくテイ・ガーネットのほうね)もそうなっています。『サンセット大通り』なんか主人公とはいえすでに死人となった男のナレーションで始まりますもんね。

だから、『ブレードランナー』の最終版とかファイナルカット版などナレーションが排除されたものではなく、通常版あるいは完全版でなければ、SFフィルムノワールとして作られた『ブレードランナー』とは言えない、と。なるほど。


独創的な「悪」
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フィルムノワールはまた、そのすべてがサスペンス映画でもありますから、悪役の登場は必須です。悪役と主役であるヒーローとの戦いがメインプロットを形成しますが、この『クリーン』の悪役がめちゃ魅力的。

表向きは魚屋を営んでいるけれど、実際は麻薬の密輸業者で、裏社会にかなり顔が利く男らしい。演じるグレン・フレシュラーという役者がいい味出しています。

この男には一人息子がいて、どうやら後を継がせたいようですが、息子は父親ほど悪辣になれないというか、悪いことなんかできそうもない善人で、父親は彼のことをよく思っていない。

こっそり中抜きした中国人の扱いをめぐって父子の対立がありますが、この父親は、敬虔なクリスチャンなのか、それを装っているのか不明だけれど、ちゃんとミサに行って献金もする男(そういえば『ラスト・ラン/殺しの一匹狼』のジョージ・C・スコットも最後の仕事の前に教会で祈るシーンがありました。闇の仕事に手を染めているからといって信仰心がないわけではないらしい)。

ミサの直後、中抜きした中国人を、父親のボスが金槌で撲殺するショッキングなシーンとなるんですが、最初の一撃でオルガンの音とともにスローモーションになるのが、ちょっと納得できなかった。先日感想を書いた『スクリーム』の新作ではただの一度もスローモーションなんてなかったですからね。教会のシーンの直後だからオルガンの音を高らかに響かせるのはわかるし、彼の悪辣非道ぶりを強調するためにスローモーションにするのもわからなくはないけど、やはりスローモーションと活劇って水と油な気がする。

とはいえ、魅力的な悪役の登場により、最後は主人公とボスとの一騎打ちになるんだろうと期待が高まります。この映画は見事にその「期待」に応えてくれます。アメリカ映画はこういうのがほんとうまい。


娘と少女
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殺し屋だった主人公にはかつて娘がいて、おそらく彼の仕事のせいなのでしょう、殺されてしまった。それで、似た感じの少女が魚屋のボスの仲間に引き入れられているのを見て、彼女を救い出すために、エイドリアン・ブロディは清掃業者としてつつましく暮らしていたのに、また銃器に手を出す決意をする。

『シティーハンター』の冴羽遼は、アシスタントの槇村香のことが好きなのに、そういう関係にはなりません。守るべき人間ができるのは殺し屋にとっては致命的。そういう関係になれば香が狙われるのは火を見るより明らか。

エイドリアン・ブロディもそれはわかっていたはずなのに子どもを儲け、殺される。なのにまた実の子ではないが一人の少女とその母親を助けることで彼らを危険にさらす。

うーん、ここは評価の分かれるところでしょうか。凄腕の殺し屋にしては脇が甘いんじゃないか、と批判する人もいそうです。

でも、私は、「枷は主人公の心のあり方にこそ求めるもの」という笠原和夫さんの「骨法十箇条」の精神を見た気がします。

確かに奥さんと子どもを儲けたのは過失と言っていいかもしれませんが、それがあったから、今度こそこの子を守るんだ、守るからこそ命を突け狙われる、というふうに、主人公の心のあり方が見事に枷になっています。


クライマックス
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クライマックスは言わずもがな、魚屋のボスの家にエイドリアン・ブロディがゴミ収集車で突っ込み、凄絶な銃撃戦となります。

徹頭徹尾、夜の光の捉え方が素晴らしい映画ですが、この銃撃戦だけはもうちょっと何とかしてほしかったというのが正直なところです。何が起こっているのかよくわからないカットが多かった。

で、最後はやはりボスとの一騎打ちになります。ただ、ここでエイドリアン・ブロディの勝利に終わっても、敗北に終わっても、期待に応えたことにはなるけど、「予想」を覆したことにはなりません。

期待には応えなければいけないが、予想は覆さないといけない。難しい。でも、この映画はその責務を見事に果たしてくれます。

あと一撃でエイドリアン・ブロディがボスを殺せるというところで、くだんの善良な息子が入ってくるんですね。彼は中盤でエイドリアン・ブロディに撲殺されかかるも一命をとりとめ、「すぐに手術をすれば顔の後遺症から逃れられる」と医者が言うにもかかわらず、息子をよく思っていない父親のボスはそれを拒否。息子を生き地獄に突き落としたのです。

その息子が拳銃を手に入ってきた。そして発砲。

何とエイドリアン・ブロディが撃たれます。ボスは不敵に笑いますが、そのボスに息子は残りの全弾をぶち込みます。さらにエイドリアン・ブロディを再び撃とうとしますが、弾切れ。

何かここは自分自身を見ているようでとても哀しかった。

私もあの息子と同じようにエディプスコンプレックスに苛まれた人間ですが、親父が死んだとき、やっと死んでくれたという喜びと、やっぱり死んで悲しいという気持ちと、相反する二つの気持ちがないまぜになってたんですよね。あの息子もそうだったんでしょう。

しかし、なぜ二人とも撃ち殺そうとしたのか、何の説明もないのはいかがなものか。私は同じ境涯だからわかったけど、他の観客ははたしてわかったのか。

『ブレードランナー』通常版で、ハリソン・フォードが自分を助けたルトガー・ハウアーの心中を推し量ったナレーションを語りますが、この『クリーン』でも、エイドリアン・ブロディが息子の心中を推し量ったナレーションを語るべきではなかったでしょうか。それがジャンルの規則というものです。

主人公のナレーションで始まった以上、同じように主人公のナレーションで幕を閉じてほしかった。

ちょっと画竜点睛を欠く感は否めませんが、それでも、フィルムノワールをいまによみがえらせてくれた『クリーン ある殺し屋の献身』は、かなり超美味な映画でございました。ごっつぁんです。








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