「エモーションを生み出すこと。一度生み出したエモーションを最後まで持続させること」

とは、かのヒッチコックの言葉ですが、最後までエモーションが持続する映画は稀にしかありません。その稀な映画が昨日公開されたロシア映画『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』。手に汗握るサスペンスであり、エモーショナルな人間ドラマで、129分があっという間でした。しかし納得できないところもある。複雑な映画です。(以下ネタバレあります)


『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』(2020、ロシア・ドイツ・ベラルーシ)
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脚本:イリヤ・ツォフィン
監督:ヴァディム・パールマン
出演:ナウエル・ペレス・ビスカヤール、ラース・アイディンガー、ヨナス・ナイ、レオニー・ベネシュ


息詰まるサスペンス
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ナチス親衛隊に捕まったユダヤ人青年のジルが、処刑を免れるためにペルシャ人になりすまし、終戦後はテヘランでレストランを開きたいと考えている親衛隊大尉コッホがたまたまペルシャ人を探していたため、彼に偽のペルシャ語を教えることで生き残りを図る。というのが物語のあらまし。これが実話というから驚き。

1日に4個の単語を憶えるという大尉に、ジルはどんどん嘘のペルシャ語を教えていく。「創作は簡単だが記憶が大変」と彼自身が言うのですが、捕虜の名簿作成の仕事を任された彼は、名簿に記す名前に引っ掛けて偽のペルシャ語をコッホ大尉に教えていく。そうして彼は大量の偽のペルシャ語を教え、大尉と一緒に憶えていきます。

大量の偽のペルシャ語を憶えられるのか、間違えたら即座に殺されるというプレッシャーの中で間違えずにいられるか、という手に汗握るサスペンスが一級のエモーションを生み出し、それを持続させます。


最初の危機(実はビッグチャンス!)
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兵長のマックスという男がジルの正体を見ぬいていて密告したりいろいろとジルのピンチを作ろうとしますが、実現には至らず。

最初のピンチは、外でパーティーをする将校たちへの食事を作っていたジルが、コッホ大尉から「木はペルシャ語で何という?」と訊かれ、「ラージ」と答えるシーンですね。

見た人ならここで誰もがドキッとなったはず。ラージは「パン」のペルシャ語訳としてすでに使っているからです。コッホもすぐ気づいて「やっぱり嘘だったのか!」と殴る蹴るの暴行。ここで大尉がジルを殺さなかったのは、おそらく他の将校の手前、騙されていたことが露見すると恥をかくと思ったのでしょう。

ジルも「ドイツ語でも錠前と宮殿は意味は違うけど言葉は一緒」と弁解します。私は最初、間違いを咎められたから咄嗟に出た言い訳なのか、それとも、どんな言語にも同音異義語はあり、まったくないほうが不自然だからわざとラージを2回使ったのか、わかりませんでした。

でも次のシークエンスで後者だと確信しました。

ジルは採石場での厳しい肉体労働に回され、しかも監視役がマックスという最悪の状況に陥る。マックスから殴る蹴るの暴行を受け、血まみれでベッドで偽のペルシャ語を使って演技でうわ言を言うんですね。「もしかしたらペルシャ語かもしれない」と隊員がコッホを呼んでくると、「お母さん、早く家に帰りたい」と言っていると理解したコッホは、今度こそジルのことを本物のペルシャ人と確信する。

なるほど、そのために「パン」も「木」も「ラージ」にしたのかと合点がいきました。一度偽物だと思わせて、やっぱり本物だったとなったほうが信頼が厚いものになりますからね。しかし危険ですよね。下手したら即座に殺されてた可能性もあるし、マックスにやられてた可能性もある。でも戦争とはそういうものなのでしょう。まさに命を懸けないと切り抜けられない。

偽と思わせておいてやっぱり本物と確信させる。ピンチと思わせて実はチャンスをものにする。ジルの頭の良さにうなりました。


もう一人のペルシャ人
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コッホ大尉のジルへの信頼がゆるぎないものになると、エモーションを持続させ、なおかつサスペンスをもっと高めるためには、マックスの存在だけでは足りません。

隣のベッドにイタリア人兄弟が入ってくるんですが、最初は彼らが新たな厄災をもたらすのかと緊張しました。だって「君が将校の部屋に入っていくのを見た」とか不穏な感じで言うのでね。

が、本当の厄災は、本物のペルシャ人が捕虜として入ってくること。これは一番期待していたことですよね。だって主人公が最大の危機に陥らないと面白くないし、サスペンスが高まらないから。偽のペルシャ人を装っている以上、本物のペルシャ人の登場は必須です。

マックスは嬉々としてその捕虜をジルに会わせ、会話させようとします。これで正体がばれる、と思いきや、そのペルシャ人捕虜はイタリア人の兄が殺すんですね。

その兄弟の弟が病気で、ジルはコッホから役得で肉の缶詰をもらって、その弟に食わせてやっていた。兄はそれに感謝してペルシャ人捕虜を殺し、マックスに拷問されそうになったジルを助けるために「俺が殺した」と凶器のナイフを見せ、マックスに射殺される。

このエピソードにより、ジルの命は助かったけれど、彼の心が変化します。

自分のために殺人を犯し、処刑された人がいる。他人を犠牲にしてまで生き延びていいのだろうか、と口にはしないけど、観客がそう思えるように描写されています。

ジルは処刑されるイタリア人の弟の代わりに、自分が死地へ赴こうとするも、ぎりぎりのところでコッホに助けられる。

このあとは、上述した通り、敗戦を察知したコッホは金を隠し持ってイランへ高飛び。でも空港で「ベルギー人です。レストランを開くんです」と言っても通じない。偽のペルシャ語だから当たり前。あのあと戦犯として処刑されたのでしょう。

ジルは連合軍の施設まで逃げ延びる。偽のペルシャ語を憶えるのに捕虜の名簿を使っていたので、捕虜の名前もすべて憶えている。自分が書いた2840人の名前をすべて挙げていき、大いに貢献するというなかなか粋なラストでしたが、私はこの結末にはあまり感心しません。それよりも「言葉とは何か」ということを強く思いました。


言葉とは何か
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中盤あたりで、ジルとコッホが偽のペルシャ語で会話するシーンがあります。「単語を憶えるだけじゃダメだ」とジルのほうから会話しようと誘い、彼の質問に対し、コッホは流暢な発音で答えていく。

偽のペルシャ語なんだから「この世には存在しない言葉」ですが、しかし、この二人の間ではちゃんと意思の疎通が取れている。なのに「偽の言葉」っておかしいですよね。

スイスの公用語のひとつであるロマ語を話す人は3万人ほどだそうです。3万人にだけ通じる言葉が正式な言葉なら、二人にしか通じない言葉もまた正式な言葉なのではないでしょうか。言葉はコミュニケーションツールなのだから、一人しか解さないならそれは言葉じゃないけど、二人以上に通じるならそれはやはり「この世に存在する言葉」です。

確かに本物のペルシャ人には通じない。でもジルとコッホの間では通じる。そんな言葉をジルは創出した。「偽の言語・架空の言語」ではなく、コッホと会話できる以上、あれは「実在する言語」でしょう。しかもコッホはその言語で詩を書いていた。そんな言語が「偽」なんておかしい。

だからこそ、名簿を暗記していて捕虜の名前を諳んじる結末ではなく、別の結末を期待しました。

コッホがジルとの別れ際にドイツ語で「良き人生を」とだけ言って空港の方角へ去っていきますが、あそこは偽のペルシャ語で会話してほしかった。二人の間だけの「正式な言語」で。

コッホを他の将校たちと同じような、私腹を肥やしたいだけの俗人・悪人として描くのではなく、『眼下の敵』のクルト・ユルゲンスみたいな立派なナチス将校として描いてほしかった。

あまり立派な人にしてしまうと、ばれたら殺されるというサスペンスが薄れますが、嘘をつく人間は許さないが嘘さえつかなければ丁重に扱う、とコッホ自身が言いますし、実際、死地へ赴こうとしたジルをコッホは助けました。それなりに立派なところがコッホにはあります。そこにもっと焦点を合わせてほしかった。

自分たち二人だけの言語で別れの言葉を交わす。そしてその言語のせいで、コッホはいずれ処刑される。自分が作った言語のせいで。コッホの後ろ姿を呆然と見送るジル。コッホが罰せられる結末より、そっちのほうがよかったなぁ。

どうしてもナチスを描くとなると「絶対悪」として描くのが最近の流行ですが、『眼下の敵』みたいな映画もあるわけだし、コッホをただの悪人として描いたのはちょいと残念でした。

「言葉とは何か」と私は考えたけど、この映画の作者たちはあまりそこには興味がないらしく、「偽の言語をでっちあげた主人公の幸福な結末」と「偽の言語を教わった悪人の哀れな末路」に収束してしまったのは「浅い」と言わざるをえません。

かつて自作脚本を長谷川和彦監督に読んでもらったとき、こんなことを言われました。

「君は脚本とは物語のことだと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」

この『ペルシャン・レッスン』は「言葉とは何ぞや」という哲学的問いを孕んだ実話を基にしながら、そこを掘り下げなかった憾みが残ります。

冒頭に書いたように、サスペンスの盛り上げとエモーションの持続という、脚本や演出などの技術面は非常に高い。つまり物語はめっぽう面白い。でも、それとは対照的にテーマの追究は浅く、哲学的な側面は薄い。その差が気になったというのが正直なところです。


眼下の敵
Biff Elliot
2022-03-26



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