谷川俊太郎さんの詩文集『ONCE ‐ワンス‐ 私の20歳代 1950‐1959』を読み、いたく感銘を受けました。


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谷川さんの20代と重なる1950年代の詩文が収録されているのですが、本業である詩のほうには今回はあまり感動せず、「10代のノートから」と題された、エッセイというか、そのときそのときに思ったことを箇条書きでまとめた箴言集のような章に一番膝を打ちました。

どういう言葉が並べられているか、ところどころ引用すると……


「感動している状態はあまりにしばしば自己陶酔に陥っている状態である。そしてもっとしばしば感傷的な状態である」

「いやしくも詩的思考をしようとする場合、僕は冷静であらねばならない。一時的な感動に動かされて詩を作ることの危険」

「書くことは読むことを意識する。どうしても自分との間に距離ができる」

「常に自分に手紙を書くこと」

「生きようという意志はひとつの壮大な善意である」

「家庭生活からあまり離れすぎてはいけない。しかし密着しすぎてはなおいけない」

「理論と実際が喰い違ったときには、まず理論を疑うべきである」

「慣れてしまうということの非常な危険」

「いかに生くべきかえを求めているつもりで、処世法を求めてしまう人がある」

「本能は神に近い」

「自分で言った言葉だと確かに思っても、それがセリフに終わることがある」

「涙にはいろいろある」

「感傷的で一時的で軽薄な瞑想をゆめゆめ思索だなどと思ってはならぬ」

「我々が生きているかぎり、手段というものはない。それらはすべて目的だ。目的のために手段を選ばぬ人たちは生を甘く見ているのではないだろうか」



以上のような感じです。

私はなかでも「常に自分に手紙を書くこと」という言葉に一番グッときましたね。


常に自分に手紙を書くこと
考えてみれば、このブログ自体が自分への手紙みたいなものです。最近、数年前に書いた日記を何度か読み返しているんですが、どれも面白い。でもそれは当たり前のことで、例えば映画の感想なんかでも、自分が抱いた感想と同じことをすでに他の誰かが書いているのならわざわざ書く必要などありません。誰も書いてないから書いている。つまり、誰かがもし書いているなら読んでみたいものを書いている。自分が読みたいと欲しているものを書いているのだから、自分で読んで面白いのは当たり前。

私がちょうど20歳だった頃、寝る前に一編の詩を書くという習慣をもっていました。いま読み返すと何だかよくわからない代物ですが、あれもまた自分への手紙だったのかもしれない。少しも意識してなかったけど。

もしかすると、シナリオやら小説やらを書いているのも、また、自分への手紙なのかもしれない。

いや、「自分への手紙」という意識が希薄だったから実力を発揮できなかったのではないか。

ある脚本家から「君はサービス精神が旺盛すぎる」と叱られましたが、他人様を楽しませることばかり優先するあまり、「自分への手紙」という意識がおろそかになっていたのかもしれません。


主治医への手紙
いま胃ガンと闘病中の私の主治医(元主治医と言ったほうがいいのか)に、京都の映画専門学校へ行き始めた頃、手紙を書いたことがあります。

それは、上の谷川さんの言葉にもある「涙にはいろいろある」ということでした。

詳しくは恥ずかしいから書きませんが、「涙にはいろいろある」んだということを衝動的に書いてしまったんです。数か月後に会ったとき主治医は「あぁあれ、ありがとね」と素っ気なかったですが、内容よりも、衝動的に書いたのがばれたのかなと、いまになって思います。

上の谷川俊太郎さんの言葉にあるように、「一時的な感動に動かされてはいけない」のだし、「感傷的で一時的で軽薄な瞑想をゆめゆめ思索だなどと思ってはならぬ」のですから。一時的な感動に突き動かされ、軽薄な瞑想を思索だと勘違いしていたのを見透かされたのかもしれない。などと。


田原総一朗の言葉
もう30年くらい前ですが、「朝まで生テレビ」で、出演者の誰かが「生きることはあくまでも手段であって、何か夢を叶えたいとか、こういうことを達成したいとか、そういう目的があるわけじゃないですか」みたいなことを言ったら、司会の田原総一朗が激昂して、

「あんた何言ってんだ! 生きることは目的ですよ!」

と言っていました。谷川さんも同じこと言ってますね。

でも、私にはこの意味がわからなかったし、いまもわからない。やっぱり何か別の目的のために生があるような気がしてしまう。

「生きようという意志はひとつの壮大な善意である」もたぶん同じような意味なのでしょう。いい言葉だなと思ってしまったけれど、実感としてわかりかねる部分がある。まだまだ青二才なのかな。


自戒
「自分で言った言葉だと確かに思っても、それがセリフに終わることがある」

この言葉はおそろしいですね。なるだけ自分の言葉で語ろうとしてはいますが、どうしても使い古された言葉や考え方に染まっている自分に気づくことがある。クリシェという落とし穴はいたるところにあって、常に我々を引き込もうと罠を張っている。

かといって、他者との違いを打ち出そうなんて色気を出すのは大いなる間違い。難しい。

結局、涙にはいろいろあるのと同じように、人の人生もいろいろあり、世の中にはいろんな人間がいて、「普通」なんてものは幻想にすぎないというごく当たり前の結論に至った初冬の夕暮れでした。



ONCE ―ワンス―私の20歳代 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社
1996-01-19


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