大好きな映画『ノッティングヒルの恋人』を再見しました。何度見てるかわからないほど好きな映画ですが、今回、新しい発見がありました。(以下ネタバレあります)


『ノッティングヒルの恋人』(1999、アメリカ・イギリス)
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脚本:リチャード・カーティス
監督:ロジャー・ミッシェル
出演:ヒュー・グラント、ジュリア・ロバーツ、リス・エバンス、ジーナ・マッキー、ティム・マキナニー


『ローマの休日』の変奏?
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よくこの映画は『ローマの休日』の変奏だと言われます。身分違いの恋を描いた映画だと。最後の記者会見とかかなり似てますもんね。

私もずっとそう思ってましたが、今回見直して、それは違うと感じました。『ローマの休日』の変奏ではなく、ぜんぜん違うものだと。設定は似ているかもしれないけれど、目指すところは真逆、つまり「身分差のない恋」を描いた映画だったのです。


「女優=娼婦」という男の世界観
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よくこの映画を好まない人は、「現実にありえない」とか「めちゃくちゃご都合主義」とか「結局、ヒュー・グラントが男前だから恋に落ちただけでしょ」みたいなことを言いますが、それは違うと思います。

まず、「女優」と「娼婦」の話をしましょう。

物語の中盤、二人がいい仲になってデートしていたら、男数人の集団が、アナ・スコット(ジュリア・ロバーツの役名)は娼婦だ。女優はいろんな言語で娼婦と同義だ」と侮辱的なことを言います。このシーンは非常に重要です。

女優と娼婦が多くの言語で同義なのかどうかは不勉強のため知りませんが、映画の中の男たちはそう言っている。そして、『ノッティングヒルの恋人』という映画を貫くネガティブな一本の太い線が「女優=娼婦」というものであり、それはつまり、女優を性的対象としか見ない、ということです。もっといえば、女優に限らず、女性全般を性的対象としか見ない世の男性諸氏に対する批判的な目が、この映画には底流しています。

物語の終盤、ジュリア・ロバーツがヒュー・グラントがやっている旅行書専門の古本屋に愛の告白に訪れたとき、ヒュー・グラントはその申し出を断るんですが、その前に母親から電話がかかってきて、その応対をしている間、別の男性店員が間をもたせようと「あなたの『ゴースト』は素晴らしかった」と言い、デミ・ムーアと勘違いしていたという笑えるエピソードがあります。

ずっとなぜこんなよけいなシーンがあるのか理解できませんでした。ヒュー・グラントが母親との電話でどんな会話をしたかはまったく観客に知らされませんしね。あの電話には意味がない。

でも、今回初めて気づきました。このシーンは極めて重要です。あの店員が、アナ・スコットとデミ・ムーアの見分けがついていない、ということが示されているからです。

なぜなら「女優=娼婦」というのがこの映画の(男性から見た)世界観だからです。相手が娼婦なら誰と寝ようがたいした違いはありません。性的対象としか見ないから一人ひとりの見分けがつかないのだと、この映画は言っているのです。

主人公のヒュー・グラントにしてからが、彼女と二回目の出会い、オレンジジュースを彼女の胸元にかけてしまったとき、「僕の家に来て着替えたらまた通りに立てるよ」なんて言っちゃいます。「通りに立つ」とは「街娼」のことですよね。そういことを思わず口走ってしまう。ヒュー・グラントもまた無意識に女性を差別している。

しかし決定的に違うのは、ヒュー・グラントが「線を引かない」ところにあると私は感じました。


線を引かない男=ヒュー・グラント
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彼女との最初の出会いのとき、万引き犯が監視カメラに映ってましたが、「棚に戻すか買うなら、見て見ぬふりしよう」と言います。警察に突き出してしまえば「犯罪者」になってしまいますが、彼はできるだけそういうことをしない。「犯罪者」と「それ以外の普通の人」という線を引きたがらない。ジュリア・ロバーツは「お見事」と言いますが、彼のそういうところにグッときたのでしょう。万引き犯がサインをねだり、電話番号も教えようか? などとほとんどセクハラまがいのことも言うのに、ヒュー・グラントはそんなことは絶対しません。彼女を「スター女優」としてではなく「一人の女性」として見ているのです。それは「娼婦=性的対象」として見ていないということです。

妹の誕生パーティーのあと、二人はある私有地に忍び込みます。柵をよじ登って明らかな不法侵入をしますが、ヒュー・グラントはヘナチョコとからかわれたことも手伝ってか、自分も彼女に続きます。決して「君みたいな有名人がもし捕まったら大問題になるよ!」なんて言わない。ここでも彼はジュリア・ロバーツを女優ではなく「一人の女性」として見ている。だから、あのシーンでジュリア・ロバーツは再び彼に熱烈なキスをするのだと思います。

ハリウッドスターのほうからキスをしてきて……というご都合主義的な映画に見えますが、よく見ればちゃんと筋が通っています。少しもご都合主義じゃない。

売れない頃に、生活のために撮ったヌード写真流出が原因でジュリア・ロバーツが彼の家を再訪したときも、ヒュー・グラントは千載一遇のチャンスとばかりに彼女を抱こうとしたりしませんよね。リス・エバンスから「これはチャンスだ」と諭されてもそれでも迷ってる。奥さんに逃げられたり、好きだった女に性的なことで文句を言われた(「耳にキスしないで」とか)のが原因なのでしょうが、彼は動かず、彼女のほうから抱かれに来るんですよね。

私も最初見たときは「あまりにご都合主義じゃないか! この男は自分から何もせず、女のほうからキスされたり抱かれに来たり、ありえない!」と思ったもんです。

でも、その「女のほうからキスされたり抱かれに来たり、ありえない!」という見方そのものが、男の女性観を端的に言い表していると思います。つまり、「女は男にとって獲物である」と。それはやはり女性を性的対象としか見ない男性だけの世界観です。


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「線を引かない」ことに一言付け加えれば、リス・エバンス演じる同居人にもヒュー・グラントは線を引きません。彼が電話の伝言をちゃんと伝えなかったり、パブで数人にアナ・スコットがうちにいると言い触らすなど、彼のせいでいろいろピンチに陥るのに、ヒュー・グラントがくどくど文句を言わないことから察するに、学生時代の友人たちと同様、「本当の友人」と思っているのでしょう。リス・エバンスは多くの人が「変人」とカテゴライズして、自分たちと彼の間に線を引きたくなるキャラクターですが、主人公はそのような下衆なことをしない男に設定されています。


ニブい男=ヒュー・グラント
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以上のような文脈から考えれば、彼ら二人はもっと早く結ばれてもよさそうなのに、そうはなりません。ジュリア・ロバーツの「あの人は過去の人よ」という言葉を本音と思ってしまう。共演者の女優を性的対象としか見ず、その尻のでかさをあげつらう下卑た男にジュリア・ロバーツが本音を言うわけないのに。

そして翌日、ジュリア・ロバーツがまた彼の店を訪れます。

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彼女は言います。

「私も普通の女性で、好きな人の前で、愛の告白をしているの」

非常にまっとうでストレートな言葉ですが、大事なのは好きだとか告白とかじゃなくて、「普通の女性」というワードでしょうね。

上述したように、彼女はヒュー・グラントが自身を「女優」と見ないから惚れたわけですから。

なのに、ヒュー・グラントは生来のネガティブ思考が災いしてか、

「僕はノッティングヒル、君はビバリーヒルズ」

と住む世界が違うと言ってしまいます。一番大事なときに彼女との間に線を引いてしまった。

その伏線として、たった一枚のヌード写真をめぐる考え方の違いがあると思われます。「スター」と「庶民」の違いかもしれないし、「男」と「女」の違いかもしれない。

でも、いろいろ違いはあるとはいえ、彼女の「私も普通の女性」という言葉は、「私はあなたとの間に何も線を引いてないのよ」という意味なのに、「彼女とは住む世界が違う」と思い込んでいるヒュー・グラントは目が曇ってしまって、目の前の女性の素直な愛の告白を拒絶してしまいます。

結局、後日、自分の愚かさにに気づいたヒュー・グラントは仲間たちの助けによって、記者会見場に首尾よく乗り込んで愛の告白をし、二人の恋は成就します。この映画はだから『ローマの休日』のような身分違いの恋を描いているのではなく、「同じ身分の恋」を描いているわけです。だから成就する。決して絵空事じゃない。

蛇足ながら付け加えると、クライマックスで大事なのは、ヒュー・グラントのかつての恋人で、いまは親友の妻になっている女性ですね。事故で車いす生活を余儀なくされていて、自分は足手まといになるからと、一人だけ見送るつもりで車の外にいます。

夫はそれを見かねて(間に合わなくなるかもしれないのに)彼女を抱きかかえて助手席に座らせ、一緒に行くことにします。

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「健常者」と「障碍者」との間にも線を引かない、みんな仲間じゃないか、と主張するこの映画が、私は心から大好きです。


ノッティングヒルの恋人 (字幕版)
ジーナ・マッキー
2019-02-25




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