2010年の『四畳半神話大系』はいまだに人々を魅了し続ける名作テレビアニメですが、そのスピンオフ企画『四畳半タイムマシンブルース』を見てきました。(以下、思いっきりネタバレしてます。ご注意あれ!)
『四畳半タイムマシンブルース』(2022、日本)
主人公の「私」に、黒髪の乙女・明石さん、憎めない悪辣野郎・小津、謎の人物・樋口師匠、おっぱい大好き城ケ崎、そしてエロさ満載・羽貫さんなどなど、おなじみのキャラクターが右往左往する姿はとても楽しく、まったく退屈せずに見れたけど、私にはどうにも納得できない映画でもありました。
ズレていく物語
実写オリジナルの『サマータイムマシンブルース』(元は芝居でしたっけ)と同じく、エアコンのリモコンが壊れてしまい、タイムマシンで昨日に戻って故障前のリモコンを取ってこよう、というなかなか独創性の高い設定のこの映画は、セオリー通り、いきなりリモコンが壊れ、タイムマシンがなぜかアパートにあり、すぐ昨日へ戻って……という展開になります。このあたりの大急ぎで話を展開していく手練手管な語り口はかなり好きです。
話はさらに展開/転回していきます。
リモコンを取りに行くのが目的だったはずが、いや、そんなことをしたら過去を変えることになってしまって、宇宙消滅の危機に瀕する! と他でもない黒髪の乙女・明石さんの言葉によって、連中はリモコンを故障する場所・時間に戻すことにします。
その過程で、樋口師匠が盗まれたビダルサスーンを昨日の自分から奪い取るエピソードがあるんですが、後述しますが、このエピソードはかなり重要です。
それとは別に新キャラが登場し、それが田村君という「未来人」。25年後の同じアパートの住人で、彼とその友人たちがタイムマシンを作ったそうな。そして、彼のお父さんもこのアパートの住人で、お母さんはアパート周辺をうろうろしていたらしい。
と、ここまで書けば、見てない人もだいたいわかりますよね。田村君のお父さんとお母さんは、主人公の「私」と明石さんなのでは、と。つまり、「私」と明石さんは結ばれるのだと。
リモコンをどうするかという話だったはずが、最終的に田村君の両親は誰なのか、というところに着地する。物語が少しずつズレていくのも好きです。
その間には、城ケ崎が誤って99年前に行ってしまったり、アパートが建つ前の沼で落としたリモコンを、現代の大家の飼い犬が掘り起こしたりと、伏線も効いてて面白い。
でも、やはり私はこの映画を支持できません。生ぬるい! とさえ思う。
100%確実な恋愛なんて
「私」が明石さんにぞっこんなのは『四畳半神話大系』の頃から明らかだし、明石さんにもその気がないわけではなさそう。
でも、それは「なさそう」なだけであって、「ない」と断言できるわけではない。
しかし、この映画は「ない」と言える状況を作ってしまうのです。
「私」は自主製作映画をクランクアップさせた明石さんが古本市に行くというので、あとを尾け、五山の送り火に誘おうとするも、結局言い出せず忸怩たる思いを抱えてアパートに帰ります。こういうのは誰にも一度は経験がありますよね。誘いたいのに誘えない。好きなのにその一言が言えない。
リモコンを戻す計画はほぼ成就し、あとはあの時間/場所に戻すだけとなり、みんなで一日後へ戻ろうとしますが、主人公だけは帰るのはまかりならん、と明石さんが止めます。
え、なぜ? と思ったら、明石さんの口から衝撃の事実が!
「先輩、昨日のあたしを五山の送り火に誘ってください」
冒頭で小津が明石さんを誘うんですが、「あたしは別の人と約束してるので」と断るんですよね。明石さんと約束してる人物って誰だ? と思うんですが、予想通り主人公の「私」でした。
だから、「私」はOKをもらえるのがわかっていて誘うんですよね。ここが致命的だと思いました。
だって、好きな子を誘うときって、OKがもらえるかどうか、もらえずに手ひどく振られたらどうしようとか、それが怖くてなかなか誘えないわけじゃないですか。古本市まで尾けていったのに誘えなかった「私」自身がそうでしょ。
それがこともあろうに、誘う相手である明石さんが背中を押してくれるんですよ。そんなのあり!? そりゃ周りの友人から背中を押されることもあります。が、押すほうだって、心から応援してるとはかぎらない。冷やかし半分、いや、振られたら面白いと腹の底でニヤニヤしてる場合のほうが多いのでは? 小津のように。
それに、OKをもらえるかどうかより、誘う言葉を言えるかどうか、好きと言う一言が言えるかどうかが一番の問題だったりするわけで、あまりに悶々とした時間が長すぎると、振られても好きと言えたから、というただそれだけで晴れ晴れとした気持ちになったりもする。
それを「あたしを誘ってください」と、明石さんから背中を押されるなんて、それだけで絶対誘えるでしょ。昨日の自分は誘ったのだ。だから今日の自分も誘えるはずだ、と。
勝ち馬にタダ乗りする「私」
ここで、後述すると言った樋口師匠のエピソードに戻りますが、彼は昨日、銭湯でビダルサスーンを盗まれた(あの髪の毛をビダルサスーンで洗っていたとは。私なんて丸坊主なのでボディソープで洗ってますがね。号泣!)。そこで今日の樋口師匠が昨日へ行き、銭湯で昨日の自分から盗む。
そう、つまり、樋口師匠は未来の自分に盗まれたのです。完全なマッチポンプです。明日の樋口師匠が今日の樋口師匠からビダルサスーンを盗む。今日の樋口師匠は明日になれば前日の自分からビダルサスーンを盗む。以下、無限ループのように同じ現象が続くことになります。
同じように、「私」は未来の「私」が明石さんを誘ったという事実を知り、それにより、ようやく彼女を五山の送り火に誘うことができます。ということは、タイムマシンがなければ「私」の背中を押してくれる人がいなかったことになってしまいます。
明日の自分が誘ったから今日の自分も誘えた。じゃあ明日の自分はあさっての自分が誘えたから誘えた。となって、これまた無限ループのタイムパラドックスに迷い込んでしまいます。
いや、ここで大事なのは、タイムパラドックスとかつじつまが合うとか合わないとかじゃなくて、何度も言うように、100%確実な誘いって、それは何のドキドキもウハウハもウジウジもない、無味乾燥なものじゃないの? ということです。
明石さんを誘うときの「私」は、何の躊躇も、何の恐怖も、何の緊張も、清水の舞台から飛び降りるような覚悟も何もなく誘うことができます。そりゃそうですよね。すでに誘った事実が後ろ盾にあれば誰だって誘える。
しかし、そこには恋愛の甘美さも苦味も何もあったもんじゃありません。
作者たちは伏線を張って、それを回収する、つまり話のつじつま合わせに気を取られて、物語の一番の「肝」の部分に最大の弱点があることに気がつかなかったんじゃないでしょうか。樋口師匠のエピソードを描いている時点で気づきそうなものですがね。同じ構造なのだから。
確かに、明石さんを誘う時点で「私」はOKをもらえるかどうかを知らない。明石さんが「別の人と約束している」と言った、その「別の人」が自分であることをまだ知らない。でも、何度も言うように、誘いの言葉を思いきって切り出せるかどうかが何よりも問題なのでね。
彼らの息子である田村君が「未来は自分で切り拓くものですよ」と言います。それがこの映画のテーマなんでしょうが、主人公の「私」は少しも自分で未来を切り拓いていません。
主人公は勝ち馬にタダ乗りしているだけです。
もっと勇気をもってほしかった。ごく普通の勇気をもって明石さんを誘ってほしかった。それなら諸手を上げて絶賛しましたが、こんなふうに主人公を甘やかす映画はできれば見たくありません。
『四畳半タイムマシンブルース』(2022、日本)
主人公の「私」に、黒髪の乙女・明石さん、憎めない悪辣野郎・小津、謎の人物・樋口師匠、おっぱい大好き城ケ崎、そしてエロさ満載・羽貫さんなどなど、おなじみのキャラクターが右往左往する姿はとても楽しく、まったく退屈せずに見れたけど、私にはどうにも納得できない映画でもありました。
ズレていく物語
実写オリジナルの『サマータイムマシンブルース』(元は芝居でしたっけ)と同じく、エアコンのリモコンが壊れてしまい、タイムマシンで昨日に戻って故障前のリモコンを取ってこよう、というなかなか独創性の高い設定のこの映画は、セオリー通り、いきなりリモコンが壊れ、タイムマシンがなぜかアパートにあり、すぐ昨日へ戻って……という展開になります。このあたりの大急ぎで話を展開していく手練手管な語り口はかなり好きです。
話はさらに展開/転回していきます。
リモコンを取りに行くのが目的だったはずが、いや、そんなことをしたら過去を変えることになってしまって、宇宙消滅の危機に瀕する! と他でもない黒髪の乙女・明石さんの言葉によって、連中はリモコンを故障する場所・時間に戻すことにします。
その過程で、樋口師匠が盗まれたビダルサスーンを昨日の自分から奪い取るエピソードがあるんですが、後述しますが、このエピソードはかなり重要です。
それとは別に新キャラが登場し、それが田村君という「未来人」。25年後の同じアパートの住人で、彼とその友人たちがタイムマシンを作ったそうな。そして、彼のお父さんもこのアパートの住人で、お母さんはアパート周辺をうろうろしていたらしい。
と、ここまで書けば、見てない人もだいたいわかりますよね。田村君のお父さんとお母さんは、主人公の「私」と明石さんなのでは、と。つまり、「私」と明石さんは結ばれるのだと。
リモコンをどうするかという話だったはずが、最終的に田村君の両親は誰なのか、というところに着地する。物語が少しずつズレていくのも好きです。
その間には、城ケ崎が誤って99年前に行ってしまったり、アパートが建つ前の沼で落としたリモコンを、現代の大家の飼い犬が掘り起こしたりと、伏線も効いてて面白い。
でも、やはり私はこの映画を支持できません。生ぬるい! とさえ思う。
100%確実な恋愛なんて
「私」が明石さんにぞっこんなのは『四畳半神話大系』の頃から明らかだし、明石さんにもその気がないわけではなさそう。
でも、それは「なさそう」なだけであって、「ない」と断言できるわけではない。
しかし、この映画は「ない」と言える状況を作ってしまうのです。
「私」は自主製作映画をクランクアップさせた明石さんが古本市に行くというので、あとを尾け、五山の送り火に誘おうとするも、結局言い出せず忸怩たる思いを抱えてアパートに帰ります。こういうのは誰にも一度は経験がありますよね。誘いたいのに誘えない。好きなのにその一言が言えない。
リモコンを戻す計画はほぼ成就し、あとはあの時間/場所に戻すだけとなり、みんなで一日後へ戻ろうとしますが、主人公だけは帰るのはまかりならん、と明石さんが止めます。
え、なぜ? と思ったら、明石さんの口から衝撃の事実が!
「先輩、昨日のあたしを五山の送り火に誘ってください」
冒頭で小津が明石さんを誘うんですが、「あたしは別の人と約束してるので」と断るんですよね。明石さんと約束してる人物って誰だ? と思うんですが、予想通り主人公の「私」でした。
だから、「私」はOKをもらえるのがわかっていて誘うんですよね。ここが致命的だと思いました。
だって、好きな子を誘うときって、OKがもらえるかどうか、もらえずに手ひどく振られたらどうしようとか、それが怖くてなかなか誘えないわけじゃないですか。古本市まで尾けていったのに誘えなかった「私」自身がそうでしょ。
それがこともあろうに、誘う相手である明石さんが背中を押してくれるんですよ。そんなのあり!? そりゃ周りの友人から背中を押されることもあります。が、押すほうだって、心から応援してるとはかぎらない。冷やかし半分、いや、振られたら面白いと腹の底でニヤニヤしてる場合のほうが多いのでは? 小津のように。
それに、OKをもらえるかどうかより、誘う言葉を言えるかどうか、好きと言う一言が言えるかどうかが一番の問題だったりするわけで、あまりに悶々とした時間が長すぎると、振られても好きと言えたから、というただそれだけで晴れ晴れとした気持ちになったりもする。
それを「あたしを誘ってください」と、明石さんから背中を押されるなんて、それだけで絶対誘えるでしょ。昨日の自分は誘ったのだ。だから今日の自分も誘えるはずだ、と。
勝ち馬にタダ乗りする「私」
ここで、後述すると言った樋口師匠のエピソードに戻りますが、彼は昨日、銭湯でビダルサスーンを盗まれた(あの髪の毛をビダルサスーンで洗っていたとは。私なんて丸坊主なのでボディソープで洗ってますがね。号泣!)。そこで今日の樋口師匠が昨日へ行き、銭湯で昨日の自分から盗む。
そう、つまり、樋口師匠は未来の自分に盗まれたのです。完全なマッチポンプです。明日の樋口師匠が今日の樋口師匠からビダルサスーンを盗む。今日の樋口師匠は明日になれば前日の自分からビダルサスーンを盗む。以下、無限ループのように同じ現象が続くことになります。
同じように、「私」は未来の「私」が明石さんを誘ったという事実を知り、それにより、ようやく彼女を五山の送り火に誘うことができます。ということは、タイムマシンがなければ「私」の背中を押してくれる人がいなかったことになってしまいます。
明日の自分が誘ったから今日の自分も誘えた。じゃあ明日の自分はあさっての自分が誘えたから誘えた。となって、これまた無限ループのタイムパラドックスに迷い込んでしまいます。
いや、ここで大事なのは、タイムパラドックスとかつじつまが合うとか合わないとかじゃなくて、何度も言うように、100%確実な誘いって、それは何のドキドキもウハウハもウジウジもない、無味乾燥なものじゃないの? ということです。
明石さんを誘うときの「私」は、何の躊躇も、何の恐怖も、何の緊張も、清水の舞台から飛び降りるような覚悟も何もなく誘うことができます。そりゃそうですよね。すでに誘った事実が後ろ盾にあれば誰だって誘える。
しかし、そこには恋愛の甘美さも苦味も何もあったもんじゃありません。
作者たちは伏線を張って、それを回収する、つまり話のつじつま合わせに気を取られて、物語の一番の「肝」の部分に最大の弱点があることに気がつかなかったんじゃないでしょうか。樋口師匠のエピソードを描いている時点で気づきそうなものですがね。同じ構造なのだから。
確かに、明石さんを誘う時点で「私」はOKをもらえるかどうかを知らない。明石さんが「別の人と約束している」と言った、その「別の人」が自分であることをまだ知らない。でも、何度も言うように、誘いの言葉を思いきって切り出せるかどうかが何よりも問題なのでね。
彼らの息子である田村君が「未来は自分で切り拓くものですよ」と言います。それがこの映画のテーマなんでしょうが、主人公の「私」は少しも自分で未来を切り拓いていません。
主人公は勝ち馬にタダ乗りしているだけです。
もっと勇気をもってほしかった。ごく普通の勇気をもって明石さんを誘ってほしかった。それなら諸手を上げて絶賛しましたが、こんなふうに主人公を甘やかす映画はできれば見たくありません。
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