saitoukouhei

もう2年近く前になりますが、Eテレの『100分de名著』でマルクスの『資本論』が取り上げられました。『人新世の「資本論」』がいまだに多くの人を魅了している気鋭の経済学者、斎藤幸平さんを先生に招いての全4回の話は刺激に満ちていて面白かったですが、ひとつだけどうにも腑におちないことがありました。


タダ働き=新たな囲い込み?
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私たちが日々スマホやパソコンでいろんなことを検索するのは「労働」だと斎藤さんはいうんですね。

私がよく使うのは何よりまずGoogle。その傘下のYouTube。そしてAmazonで検索もするし、allcinemaも使うし、ヤフーなども使います。

それらの検索結果や、どのサイトをクリックしたかなどはすべて「ビッグデータ」として、いわゆるGAFAと呼ばれる企業をはじめとした超大企業がもっと儲けるための手段として使われる。だから私たちが検索するのはほしい情報が得られるメリットもあるけれど、タダで労働をさせられているデメリットもある、と。これはマルクスが資本主義の特徴として挙げた、資本家による「囲い込み」だ、というのが斎藤さんの主張でした。

が、私はどうにも納得できませんでした。確かにGAFAなどを儲けさせてはいるけど、ほしい情報を瞬時に得られるわけで、メリットのほうが大きいのでは? 


行政が考える「労働」
ちょうど一年前、私はある会社を辞めて、失業保険で暮らしていました。

失業給付を受けるためには、認定日の指定時間に必ずハローワークに行かないといけないのですが、そのときに「労働」した日をすべて申告しないと不正受給になってしまうんですが、ここで大事なのはボランティアなど賃金が発生しない活動も申告しないと不正受給になってしまうということなんです。

例えばこのブログはGoogleアドセンスで広告を配信してもらっていくばくかのお金をもらっています。だからブログを更新した日を申告しなきゃいけない、実際に現金が振り込まれたらそれも申告対象になるのはわかります。

でも対価のまったくないボランティアがなぜ申告対象なの? とずっと不思議でしたが、何となくわかった気がします。

行政側が考える「労働」の定義は、おそらく「社会貢献」なんでしょう。その活動によって賃金がもらえたかどうかは二次的な意味しかなく、まず社会に貢献した活動かどうかが何より問われるんだろうな、と。

そう考えると腑におちることがあります。


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有村架純が主演したWOWOWオリジナルドラマ『前科者 ‐新米保護司・阿川佳代‐』の冒頭で、保護司とは何かという説明のテロップが出るんですが、保護司って身分は「国家公務員」なんですって。びっくり。

国家公務員だけど無報酬。無報酬だけど、とても大事な仕事。もともと国はそういう考え方をもっている。だから失業給付を受けるときにはボランティアでも申告しなきゃいけないんですね。明治のときに欧米から輸入した思想なのだろうけど、とてもいい考え方だと思いました。


roudou

労働とは、対価を得られるかどうかよりもまず、社会に貢献する活動かどうかである。

思い返してみれば、私がこれまで経験した仕事はどれも広く社会に資する仕事だっだと思います。映画の撮影現場、工場、飲食店、ホテル、官公庁、etc. そうじゃない仕事なんてほとんどないのでは?

ならば、前述のスマホで検索する行為はどうなるでしょうか。


「労働」とは何か
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これは「労働」ではありませんね。ほしい情報が得られるから自分の利益にはなる。そしてGAFAにビッグデータを提供しているけれど、それは一部の超大企業を儲けさせているだけで社会貢献をしているわけではない。

だから検索行為が「労働」じゃないのは正しいと思うんですが、では逆に、私のようにこういうブログを書くという行為はどうなのでしょうか?

このブログに広告を配信してくれているGoogleアドセンスはその名の通りGAFAの一角なんですが、「広く社会の人々に利益をもたらすサイト」でないと世界一厳しいGoogleの審査を通ることはできないそうです。

広く人々のほしい情報を書いてるわけだから、このブログを書くという行為は間違いなく「労働」でしょう。だからハローワークに申告しないと不正受給になってしまう。

やった! 俺が書くことは労働なんだ! と快哉を叫んだものの、いや、待てよ。とも思うのです。


奴隷根性
いやいや、そういうふうに考えること自体が「囲い込み」で、おまえはGAFAの奴隷になっているだけだ。と、もう一人の自分の声が聞こえてきます。

広告収入は確かにあるものの微々たるもので、そりゃ少しは生活を助けてはくれるけど、その程度です。

実際に広告主から入ったお金のうち、結構な額をGoogleがもっていっちゃうんでね。これは「囲い込み」以外の何物でもありません。私はGoogleに搾取されている。

それは不満だし忸怩たるものがあるけれど、何がしかの大きな企業を介すしかブログを使って収入を得ることは不可能だし、仕方ないかな、とも思う。どこかとてもいい企業に勤めたところで一定のお金は搾取されるわけだし、資本主義は労働者から搾取することで成り立つ経済体制なのだから、これはもう致し方ない。まったく新しい経済体制を打ち出さないことにはどうにもならない。

と、ここまで考えてきて、ふと気づくんですよね。上述の「労働」の定義、つまり「社会貢献」をまず条件とする、という思想の怪しさに。


「新しい労働」とは何か
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東出昌大は、いま人里離れた山奥で自給自足の生活をしているそうです。薪を割ったり、獣を仕留めてその肉を食ったりしているとか。撮影があるときはもちろん都心に出てくるけど、それ以外は山奥。極端なときは一か月の食費がゼロですむらしいです。いまは新しい家を建設中とかで、なかなかいい暮らしをしている様子です。

彼の行動は従来の、つまり日本が明治に欧米から輸入したときの「労働」ではないですよね。だって社会に資する行為じゃないので。あまったものを近隣の人に分けたり分けてもらったりはしてるけど、私のように世界中からいつでもアクセスできる記事を書いているわけではない。

でも、私より彼のほうがよっぽど幸せそうです。

パソコンを使ってこんな記事を書いている私も、スマホで検索してこの記事にたどり着いた人も、たぶん東出昌大ほどの幸福感を感じていない。

検索行為は労働ではない。検索される記事を書くのは労働である。しかしどちらも資本家の餌食になっていることに変わりはない。

なるほど、斎藤幸平さんが言っていた資本家からの「囲い込み」から脱出せよ、というのはこういうことだったのか、とやっと腑におちました。検索行為が労働に当たるかどうか、問題はそこではなく、資本家の手先になるなというメッセージだったのですね。

おそらく「労働」の定義に「社会貢献」がまず必要となったのは、明治維新で富国強兵や脱亜入欧のスローガンが掲げられたのが大きいんでしょうね。社会に貢献する活動は、ひいては日本という国家に貢献する活動である、と。欧米列強など近代国家がそういう考え方を採用したのも、自分の国を強くして帝国主義の時代を生き抜くためだったのでしょう。

つまり、「労働」とは、国家や資本家など一人の人間よりよっぽど大きな組織に貢献する活動のことである。ということが言えそうです。

いまはGAFAなど超大企業がさらに私腹を肥やすためにこの考え方が用いられている。社会貢献といえば聞こえがいいけど、結局、肥えた者をさらに肥えさせるのが現在の「労働」です。特に格差がどんどん開くいまの世界にあっては、労働したほうが損じゃないかとすら思える。


「新しい労働」とは
だから私たちは「新しい労働」を生み出さないといけない。斎藤幸平さんが言っていたことはたぶんそういうことなんだろうし、東出昌大が都会生活に倦んで山奥に逃げたのも、おそらく「囲い込み」に疲れたからではないですか。そいうえば彼は数年前、スマホからガラケーに機種変してニュースになってましたが、GAFAなどが提供する新しい物への懐疑がもともとあったのでしょう。

私の主治医はどこかに勤めないと生きていけないと言いますが、本当にそうなんでしょうか? 勤めるなら囲い込みによって不幸になるだけです。東出昌大のように自給自足の生活をするなら勤めなくても生きていけるし。

まず根源的な問いを投げかけないといけないような気がします。

でも、一方で、奴隷根性といっても、古代ギリシアのように、奴隷をとても大切に使ってくれるなら、つまりホワイトな企業に勤めるならぜんぜんいいよ、という考え方もあります。それは否定できない。

難しい問題です。

↓約1年前に書いた類似記事はこちら↓ 
人間にとって「労働」とは何か




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