前々から映画についてこのブログやツイッターで私なりに思うこと・信じること発言していますが、どうにも不満なこと、違和感を感じることがあります。


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映画って物語もあるし、役者の芝居に映像や音響効果など、情報量がとても多いじゃないですか。

だからすべてを語ることは不可能だろうし、私は脚本家を目指していた人間なので、どうしても物語に偏りがちです。

とはいえ、もともとは監督志望だったので、芝居についても当然語るし、美術や衣装のデザインや、ライティングについても語るし、現場では録音部だったから音響についても語ることがあります。

不満に思ったり違和感を感じたりするのは、物語について語った記事より、美術やカメラワーク、ライティングなど表層を語ったときのほうが好意的な反応が多いということです。これは統計学的に有意な差が歴然とあります。


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どうしても表層批評で一世を風靡し、いまも映画ファンや映画製作を志す人に強い影響を与え続けている蓮實重彦の影がちらつきます。

私だって蓮實からは強く影響を受けたし、映画を見る目を鍛えてもらったけれど、表層だけがすべてじゃないことぐらいわかっています。それは蓮實自身も思っていることでしょう。

あくまでも蓮實が表層批評宣言なるものをしたのは、内容ばかりに偏りがちな映画批評の世界へのアンチテーゼとしてであって、まさかそれがすべてだなどと思っていたわけではないでしょう。


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あるプロデューサーがこんなことを言っていました。

「古典的ハリウッド映画が何を目指していたかといえば、それはやはり物語なんですよ。面白い物語を語る。物語全体はこういうものである。その中でこのシーンはこういう意味がある。このシーンのこのセリフにはこういう意味がある。じゃあ、そのセリフをしゃべる俳優を撮るとき、カメラはどこに置くの? そういうふうに考えて作るのが映画です」

だから、物語と映像など表層に関わることは密接に絡み合って一体になっているわけですよね。内容と表層の二つに分かれているわけではない。両者は不可分の関係にある。

なのに、表層について多くを割いた記事にはリツイートやいいねなどの反応がたくさんあり、物語についてだけ書くと反応がない、あるいはあっても少しだけ、というのは、これはもう蓮實の悪影響と言っていいと思います。

昔は内容に偏っていたけど、いまは表層に偏っている。

「映画の本質は物語ではない」と高らかに語る映画評論家がいる。蓮實はかつて「口実としての物語」という言い方で物語や脚本を揶揄した。一般の映画ファンでも表層を語りたがる。

たぶん、一般の映画ファンのそういう人たちは、映画の表層を語ることが物語を語ることより「高等」だと思ってるんでしょうね。ファッションとしての表層批評。

でも、それは絶対に違います。いや、私は表層より物語のほうが大事だと言ってるわけじゃないんですよ。


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高校の頃、倫理(哲学)の先生がこんなことを言っていました。

「100匹の羊がいて、1匹だけいなくなった。残りの99匹を大事にするのが政治家の仕事であり、99匹を犠牲にしてでもいなくなった1匹を探し求めるのが芸術家の仕事だ。みたいな言葉があるけど、あんなの馬鹿げてる。どっちも取るんだよ。両方大事なんだよ。どっちかだけ大事なんてありえない」

その教師は「両方大事」という哲学は人生を生きるうえでとても大事なものだと口を酸っぱくして言っていました。まだ子どもだった私は「アホなことを言ってるな」と友だち同士で笑ってましたが、いまは「両方大事」の大切さがとてもよくわかります。

卒業制作に打ち込んでいた頃、脚本コースの人間でこんなことを言った奴がいました。

「映画作りで一番大事なのは何だ? シナリオだろ?」

それは違うとはっきり言いました。シナリオも大事だし、キャスティングや撮影や美術や録音も大事だし、ロケ弁をどんなものにするのかだってとても大事。人は食べ物で動きますからね。すべてが大事。

「何が一番大事」という考え方はとても危険です。それさえちゃんとできればあとは疎かでもいいと考えてしまうからです。

だから両方大事。全部大事。

物語のほうが大事なわけでもないし、表層のほうが大事なわけでもない。両方大事。

それを心がけてこれからも映画と対峙していきたいと思っています。
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