永野芽郁が従来のイメージを覆す役に挑戦した、タナダユキ監督の新作『マイ・ブロークン・マリコ』を見てきました。(以下ネタバレあります)
脚本:向井康介&タナダユキ
監督:タナダユキ
出演:永野芽郁、奈緒、窪田正孝、尾美としのり、吉田羊
苦手だったタナダユキ作品
予告編がかなりよくできていたので、即、見に行こうと決めたんですが、後日、タナダユキ監督作品と知って予定から外したのです。これまで『百万円と苦虫女』や『浜の朝日の嘘つきどもよ』や『さくらん』など見た映画に好きなものが一本もないので。ドキュメンタリーの『タカダワタル的』は好きです。でもフィクションでは一本もない。
ただ、「ある事実」を知りました。上映時間がたった85分しかないということ。
予告編をもう一度見てもやはりかなりの出来映えだし、ここはひとつ「タナダユキ」という名前は忘れて見に行こうじゃないか、ご贔屓女優・永野芽郁の新境地らしいし。というわけで見に行ったわけです。
開巻早々、見に来たのは間違いじゃなかったと思いましたね。
昼休みにラーメンを食べている永野芽郁が、店のテレビで親友のマリコが飛び降り自殺したことを知る。「死んだマリコという人間は、あたしのダチだった」という心の声。上々の始まり方です。
そのあとで、永野芽郁がブラックな不動産屋で働いていること、一人暮らしであること、友人と呼べる人も恋人もいないこと、実家とも特に付き合いがないらしいこと、とにかく孤独であること、荒んだ生活をしていること等々が描写されますが、最近の映画では、こういうことを最初に描くのが多いじゃないですか。
私の印象では日本映画よりアメリカ映画のほうがその傾向が強いのですが、冒頭のシークエンスで主人公の日常をだらだら描き、ご丁寧に主人公自身のナレーションで微に入り細に穿つように自分はどんな奴でどんな生活をしてて、などと語ってくれるんですが、それはあくまでも「説明」であって「描写」ではありません。
『シナリオ創作演習12講』『ドラマとは何か? ストーリー工学入門』など、長年、後年の指導に当たられた脚本家、川邊一外さんはこんなことを言っていました。
「導入部を人物紹介の場だと捉えることほど愚かなことはない。ドラマはどこを切っても血が出なければならない。血が出るようなドラマを展開させながら人物を描写するのである」
うーん、いい言葉です。実践するのはとても難しいですが。
でもこの『マイ・ブロークン・マリコ』ではいきなり血が出る導入部で、だから85分の上映時間なら見に行く価値ありと判断したわけです。
とはいえ、私は全面的にこの映画を支持するわけでもありません。
逃げてませんか?
永野芽郁演じるシイノは、マリコが実父から性的虐待を受けていたため、彼と継母の家からマリコの遺骨を奪い取り、その遺骨と旅に出ます。「親友の遺骨と旅をする物語」これが『マイ・ブロークン・マリコ』のオリジナルな骨組みなのですが、このシーンのあと、永野芽郁はベランダから飛び降りて逃走します。少なくとも一階ではないところから飛び降りてどうなるのかと思ったら、シーンが飛んで、河川敷で着地する画面に切り替わるんですね。
え? ベランダから飛び降りたときはどうなったんですか? 足を挫くくらいはするだろうし、骨を折ってもおかしくない。骨折した足を引きずって遺骨と旅するのも面白かったと思うのですが、この映画では永野芽郁を自由に動かしたいからか、そこをスルーしてしまっていてガッカリ拍子抜けでした。
それは後半、引ったくりに遭い、その犯人の男に襲われそうになっている女子高生がマリコに見えて、永野芽郁は半狂乱になってマリコの遺骨の入った箱で男を殴打して少女を救うのですが、遺骨が散乱してしまい、さらには永野芽郁も勢いあまって崖から落ちる。
が、崖の下で倒れて気がつくと、引ったくりの現場で出逢った窪田正孝がそばにいて「ここ、なかなか死ねないんですよね」と経験者は語る的に教えてくれる。
ここも崖からどう落ちたとか、なぜ「なかなか死ねない場所」なのか、わかるように描写してほしかった。『太陽を盗んだ男』のラスト近く、虫の息の菅原文太に抱きすくめられた沢田研二が一緒にビルの屋上から落ちるじゃないですか。沢田研二だけ電線に引っかかって死なないどころか大怪我すらしないんですが(あれは主人公にとって不幸でしたよね。何しろ死にたいんだから)せめてそれぐらいの「なぜ大怪我せずにすんだか」は描いてほしい。「ここ、なかなか死ねないんですよね」という窪田正孝のセリフですべてをすませるというのは、私は「逃げ」だと思う。
シイノとマリコの微妙な関係
マリコにとってシイノが特別だったのと同じように、シイノにとってもマリコは特別な存在だった。
そうなんでしょうけど、死んでから家の包丁を鞄に入れて「待ってろマリコ、今度こそ助けてやる」みたいなことを言って実父の家に向かうのですが、いやいや、死んでからじゃ遅いでしょ、と突っ込んでしまいました。
特別な存在なら、高校を卒業してからマリコとはどの程度の付き合いだったのかとか、少しは説明してほしい。LINEでのやりとりはしてたみたいだけど、回想で二人が会うシーンが中学や高校のときのものばかりで社会人になってからのものがないから、「最近はどうだったんだろう?」と気になるけど、映画は何も語ってくれない。
あとのほうで、「あたしにとってマリコはちょっとめんどくさい奴だった」とも言ってるから、最近はまったく会ってなくて音信不通状態だったけど、死んだことで特別な存在だったことを知る、というならわかるんですが、どうもそうでもないみたい。
後半登場する窪田正孝が実にいい味出してましたが、彼がもっとマリコのことを質問して、シイノに語らせたらよかったのではないでしょうか。
「死んだ人に会うためには、生き続けることが大事じゃないでしょうか」というセリフはとてもいいと思いましたが。その前の「風呂に入ってよく寝て、ちゃんと食べないと変なことを考えるようになります」というセリフもね。彼もまた自殺願望者だからこそ言える言葉なんでしょうけど、心に沁みました。
永野芽郁
いつもの女の子女の子した永野芽郁ではなく、やさぐれてて、煙草も吸い、あぐらもかく役はやはり新境地ですね。指導したタナダユキ監督の演出力も高く評価されるべきと思います。
テレビドラマ『ユニコーンに乗って』では「数字の取れない女優」とか悪意たっぷりの記事を書かれてましたし、この映画もまだ二日目の土曜日なのにガラガラだったので、また似たような記事を書かれるんでしょうけど、めげずに頑張ってほしい。
興行成績や視聴率が振るわない責めをなぜ俳優にだけ負わせるのか、私にはまったく理解できません。
何だかまとまりのない感想になってしまいましたが、要点を記すと、
①上映時間が短く退屈する場面がほとんどない
②その代わり説明すべきことから逃げている場面がある
③シイノとマリコの関係をもう少しわかりやすく描いてほしかった
④永野芽郁は素晴らしい女優
ということになります。監督の名前で映画を選ばなくてよかったと思います。だからよけいにお客さんの入りが悪いのが気になりますね。(悪いのは永野芽郁じゃないよ)
脚本:向井康介&タナダユキ
監督:タナダユキ
出演:永野芽郁、奈緒、窪田正孝、尾美としのり、吉田羊
苦手だったタナダユキ作品
予告編がかなりよくできていたので、即、見に行こうと決めたんですが、後日、タナダユキ監督作品と知って予定から外したのです。これまで『百万円と苦虫女』や『浜の朝日の嘘つきどもよ』や『さくらん』など見た映画に好きなものが一本もないので。ドキュメンタリーの『タカダワタル的』は好きです。でもフィクションでは一本もない。
ただ、「ある事実」を知りました。上映時間がたった85分しかないということ。
予告編をもう一度見てもやはりかなりの出来映えだし、ここはひとつ「タナダユキ」という名前は忘れて見に行こうじゃないか、ご贔屓女優・永野芽郁の新境地らしいし。というわけで見に行ったわけです。
開巻早々、見に来たのは間違いじゃなかったと思いましたね。
昼休みにラーメンを食べている永野芽郁が、店のテレビで親友のマリコが飛び降り自殺したことを知る。「死んだマリコという人間は、あたしのダチだった」という心の声。上々の始まり方です。
そのあとで、永野芽郁がブラックな不動産屋で働いていること、一人暮らしであること、友人と呼べる人も恋人もいないこと、実家とも特に付き合いがないらしいこと、とにかく孤独であること、荒んだ生活をしていること等々が描写されますが、最近の映画では、こういうことを最初に描くのが多いじゃないですか。
私の印象では日本映画よりアメリカ映画のほうがその傾向が強いのですが、冒頭のシークエンスで主人公の日常をだらだら描き、ご丁寧に主人公自身のナレーションで微に入り細に穿つように自分はどんな奴でどんな生活をしてて、などと語ってくれるんですが、それはあくまでも「説明」であって「描写」ではありません。
『シナリオ創作演習12講』『ドラマとは何か? ストーリー工学入門』など、長年、後年の指導に当たられた脚本家、川邊一外さんはこんなことを言っていました。
「導入部を人物紹介の場だと捉えることほど愚かなことはない。ドラマはどこを切っても血が出なければならない。血が出るようなドラマを展開させながら人物を描写するのである」
うーん、いい言葉です。実践するのはとても難しいですが。
でもこの『マイ・ブロークン・マリコ』ではいきなり血が出る導入部で、だから85分の上映時間なら見に行く価値ありと判断したわけです。
とはいえ、私は全面的にこの映画を支持するわけでもありません。
逃げてませんか?
永野芽郁演じるシイノは、マリコが実父から性的虐待を受けていたため、彼と継母の家からマリコの遺骨を奪い取り、その遺骨と旅に出ます。「親友の遺骨と旅をする物語」これが『マイ・ブロークン・マリコ』のオリジナルな骨組みなのですが、このシーンのあと、永野芽郁はベランダから飛び降りて逃走します。少なくとも一階ではないところから飛び降りてどうなるのかと思ったら、シーンが飛んで、河川敷で着地する画面に切り替わるんですね。
え? ベランダから飛び降りたときはどうなったんですか? 足を挫くくらいはするだろうし、骨を折ってもおかしくない。骨折した足を引きずって遺骨と旅するのも面白かったと思うのですが、この映画では永野芽郁を自由に動かしたいからか、そこをスルーしてしまっていてガッカリ拍子抜けでした。
それは後半、引ったくりに遭い、その犯人の男に襲われそうになっている女子高生がマリコに見えて、永野芽郁は半狂乱になってマリコの遺骨の入った箱で男を殴打して少女を救うのですが、遺骨が散乱してしまい、さらには永野芽郁も勢いあまって崖から落ちる。
が、崖の下で倒れて気がつくと、引ったくりの現場で出逢った窪田正孝がそばにいて「ここ、なかなか死ねないんですよね」と経験者は語る的に教えてくれる。
ここも崖からどう落ちたとか、なぜ「なかなか死ねない場所」なのか、わかるように描写してほしかった。『太陽を盗んだ男』のラスト近く、虫の息の菅原文太に抱きすくめられた沢田研二が一緒にビルの屋上から落ちるじゃないですか。沢田研二だけ電線に引っかかって死なないどころか大怪我すらしないんですが(あれは主人公にとって不幸でしたよね。何しろ死にたいんだから)せめてそれぐらいの「なぜ大怪我せずにすんだか」は描いてほしい。「ここ、なかなか死ねないんですよね」という窪田正孝のセリフですべてをすませるというのは、私は「逃げ」だと思う。
シイノとマリコの微妙な関係
マリコにとってシイノが特別だったのと同じように、シイノにとってもマリコは特別な存在だった。
そうなんでしょうけど、死んでから家の包丁を鞄に入れて「待ってろマリコ、今度こそ助けてやる」みたいなことを言って実父の家に向かうのですが、いやいや、死んでからじゃ遅いでしょ、と突っ込んでしまいました。
特別な存在なら、高校を卒業してからマリコとはどの程度の付き合いだったのかとか、少しは説明してほしい。LINEでのやりとりはしてたみたいだけど、回想で二人が会うシーンが中学や高校のときのものばかりで社会人になってからのものがないから、「最近はどうだったんだろう?」と気になるけど、映画は何も語ってくれない。
あとのほうで、「あたしにとってマリコはちょっとめんどくさい奴だった」とも言ってるから、最近はまったく会ってなくて音信不通状態だったけど、死んだことで特別な存在だったことを知る、というならわかるんですが、どうもそうでもないみたい。
後半登場する窪田正孝が実にいい味出してましたが、彼がもっとマリコのことを質問して、シイノに語らせたらよかったのではないでしょうか。
「死んだ人に会うためには、生き続けることが大事じゃないでしょうか」というセリフはとてもいいと思いましたが。その前の「風呂に入ってよく寝て、ちゃんと食べないと変なことを考えるようになります」というセリフもね。彼もまた自殺願望者だからこそ言える言葉なんでしょうけど、心に沁みました。
永野芽郁
いつもの女の子女の子した永野芽郁ではなく、やさぐれてて、煙草も吸い、あぐらもかく役はやはり新境地ですね。指導したタナダユキ監督の演出力も高く評価されるべきと思います。
テレビドラマ『ユニコーンに乗って』では「数字の取れない女優」とか悪意たっぷりの記事を書かれてましたし、この映画もまだ二日目の土曜日なのにガラガラだったので、また似たような記事を書かれるんでしょうけど、めげずに頑張ってほしい。
興行成績や視聴率が振るわない責めをなぜ俳優にだけ負わせるのか、私にはまったく理解できません。
何だかまとまりのない感想になってしまいましたが、要点を記すと、
①上映時間が短く退屈する場面がほとんどない
②その代わり説明すべきことから逃げている場面がある
③シイノとマリコの関係をもう少しわかりやすく描いてほしかった
④永野芽郁は素晴らしい女優
ということになります。監督の名前で映画を選ばなくてよかったと思います。だからよけいにお客さんの入りが悪いのが気になりますね。(悪いのは永野芽郁じゃないよ)
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