予告編を見て、ただならぬ妖気を漂わせたショットの連続に「これは普通の映画ではない」と直覚し、しかも「禁断(タブー)」とは何かがめちゃ気になり、さらにツイッターなどネット上では賛否両論真っ二つと聞いていかないわけにはいかなかった、北欧アイスランド発『LAMB/ラム』。A24とは相性の悪い私ですが、いろんな意味で興味深い映画でした。(以下いきなりネタバレしてます。ご注意ください)


『LAMB/ラム』(2021、アイスランド・スウェーデン・ポーランド)
lamb

脚本:ショーン&ヴァルディマール・ヨハンソン
監督:ヴァルディマール・ヨハンソン
出演:ノオミ・ラパス、ヒルミル・スナイル・グドゥナソン、ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン


禁断(タブー)とは何か
lamb-1
(ノオミ・ラパス、相変わらず面構えがいい)

予告編では、「ある日、生まれてきたのは禁断(タブー)だった」みたいなナレーションがあって、禁断(タブー)とは何かで客を呼ぼうというのは、怖いもの見たさで見に来る人が多いだろうから「正しい売り方」だと思ったんですよね。

ところが、何とこの映画は、そのタブーを観客にも秘密にするんですね。羊を人間の赤ん坊が寝る小さなベッドに寝かせて首から下は完全に蒲団で隠して……って、もうそこで「この羊は首から下が人間なんだろう」と予想できちゃうじゃないですか。

でも逆に、あえて首から下を隠すのは、首から下が人間の半獣半人ではなく、何かもっと別の「禁断(タブー)」なのかな、と思ったんですよね。いったい何だろう、と。

そしたら第1章が終わるちょうど40分のところでネタばらしがありました。やっぱり首から下は人間でした。そこまで引っ張って予想通りかよ! と突っ込んで笑ってしまいました。しかも同じ半獣半人でもギリシア神話のケンタウロスや日本の妖怪、件(くだん)だと人間の上半身と馬や牛の下半身ですが、アダは正反対で、人間の体に獣の顔。気持ち悪いですが、どうしても牛や馬と違い、子羊だからか見ているうちにかわいげを感じてしまって、微笑ましくて笑ってしまうんです。


579257(ほらね)

しかもあの見せ方は素晴らしい! 夫婦でアダと名づけた子どもを連れて山を散歩しているとき、首だけ映っていたアダの下半身が人間であることがサラッと映されるんですが、その見せ方に品があるというか、凡百な映画なら、これ見よがしにクロースアップで撮ってドガジャーン!ってな音楽で驚かせるじゃないですか。

この映画はそんな下品なことは一切しないのです。いや、むしろ見せ方はかなり上品で、これがデビュー作らしい無名の監督さんはそのうちハリウッドに招かれるんじゃないかと思わせる本物の演出力をもっているんですね。


撮影と音響効果
LAMB2

この画像はちょっと違いますけど、冒頭一発目のショットがすごかったですよね。遠くに羊の群れがいて、カメラがゆるやかに近寄っていく。そこにフーフーという何者かの荒い息遣い。あれは後半出てくる「怪人」のものなんでしょうけど、最初の時点では羊がたくさん集まるとあんな感じなのかな、と思ってました。

この映画はセリフが極端に少ないですが、セリフはなくとも、息遣い、衣擦れの音、足音、羊の鳴き声、風の音、雨音、etc. 実に多様な音のひとつひとつがとてもよく録れていて、録音部出身としては狂喜乱舞したし、それより何より、黒沢清監督がかつて言っていた「映画を映画たらしめているのは、実は音ではないか」という言葉を思い出させてくれるほど、音響効果が素晴らしいと思いました。

そして、撮影。
アイスランドは行ったことないのでどんなところか実際は知りませんが、おそらく映画に映っているまんまなのでしょう。常に山の向こうには靄がかかっていましたね。遠景の靄は本物でしょうが、人物が大写しになったときの朝靄とかは、あれも本物なのかな? 人為的に炊いたスモークなのか。どちらかはわかりませんが、靄がいい感じに撮れてるし、屋外でも室内でもおそらく自然光だけで撮っていると思われますが、光の加減もいいですよね。

そして、いろんなものの見せ方。先述のアダの首から下を初めて見せるシーンもそうだし、ノオミ・ラパスとその夫がアダの出産時のリアクションも抑制が効いていました。決して叫んだりしない。映画のトーンが完璧に統一されていて、これは本物だと思いました。あくまでも演出は。


結局、何だったの?
LAMB1 (1)

映画が終わって明かりがつくと、すぐ後ろのカップルの男のほうがこんなことを言っていました。

「最近、こっちに解釈をゆだねる映画が多いよね」

その真偽はともかく、解釈を観客にゆだねるといえば聞こえがいいけど、この映画は単に作り手がサボっているだけじゃないんですかね? 語るべきことをちゃんと語っていない。

アダがなぜ半獣半人なのかも語らないし、それどころか、大人の半獣半人(前述の「怪人」)も出てくるんですよ。彼らがどういう種族なのか、なぜライフルをもっているのかなど何も語られない。作者たちは少しも答えを出そうとしないけど、前述のとおり見せ方は本物なので、つい食い入って見てしまうし、アダや大人の怪人がどうしても滑稽で、滑稽なのに大真面目に撮ってるから、逆に笑ってしまうんですよ。

彼ら半獣半人の怪物がなぜ生まれ、どこでどれぐらいの人数で暮らしているとか、そういう彼らの哀しみをちゃんと説明してくれたら笑わずにすんだと思うし、感動もしたと思う。

私の記憶が正しければ音楽もエンドクレジットまでなかったですよね。そのエンドクレジットで流れる音楽がめちゃくちゃ荘厳な曲で、作者たちは恐怖や感動を感じてほしかったのかもしれないけど、私は、映画の表層と内容のあまりの乖離に独りで爆笑してました。


説明しない? 考えてない?
LAMB3

思えば、予告編の冒頭で「子どもを幼くして失った夫婦が……」とナレーターが語ってましたが、実際の映画で幼い子どもを失ったことが語られるのはだいぶ後のほうですよね。やはりアダが生まれる前に説明すべきでは? でないと、彼を見ても殺さずに大切に育てる夫婦に何も共感できないし、やっぱり笑っちゃうんですよ。

夫の弟が訪ねてきますが、どうも弟とノオミ・ラパスはかつて恋仲だったようで、弟はまだその気があるけど、ノオミ・ラパスのほうはまったくその気はない。その設定が物語にどう寄与しているのかよくわからないし、それより何より、あの弟、のっぴきならないことを言ってましたよね。

「お母さんを殺したことをアダは知ってるのか?」

お母さんというのはノオミ・ラパスの母親のことなんでしょうけど、え、殺した? これは穏やかじゃない。ぜんぜん穏やかじゃない。母親を殺した。しかも弟はそれを知っているし、もしかしたら共犯なのかもしれない。夫はそのことを知っているのか。いろいろ考えましたが、この伏線らしき情報はいっさい回収されませんでした。回収されなかったということは伏線ではなかったということであり、別にセリフで語られることのすべてに意味がないといけないなんて思わないけど、母親を殺したなんて穏やかじゃない情報に何の意味もなかったなんて、ちょっとありえない。
(アップした2時間後に追記。ツイッターで親切な方が教えてくださいました。お母さんとはアダの母親のことじゃないかと。なるほど。確かにノオミ・ラパスが羊を一匹殺してましたね。でもアダの母親だとちゃんと説明してくれないとわからない。あの大人の怪人はアダの父親で、アダの母親を殺した人間に復讐しにきた話だと。なるほどね。じゃあのお父さんは神様で母親羊がマリアでアダはイエスなんですか? うーん、しかしだから何なのだろう???)

作者たちは、アダたち半獣半人の種族のあれやこれやについて、ノオミ・ラパスの母親殺しについて、夫の弟との関係などなど、いろいろ考えぬいたけど、あえて語ってないのか。あるいは何も考えてないのか。どうも後者のような気がしますが、どちらにしても、観客に解釈をゆだねるのは、語るべきことを語り、説明すべき情報はすべて提示したうえのことにしてほしいです。

何度も言っているように、この映画は撮影も録音も一級なので、逆に脚本の粗さが目立ってしまっているんです。だから笑ってしまうのです。(脚本のクレジットには監督ともう一人「ショーン」という名前の人物がいますが、何者なんだろう?)

あのエンディングの荘厳な音楽を聴きながらゲラゲラ笑ってしまうって、まぁ稀有な体験ではありましたが、やっぱり、あれだけの曲は感動して身動きが取れないような状態で聴きたかったというのが正直なところです。

やはりA24とは相性が悪いみたい。









このエントリーをはてなブックマークに追加