武田砂鉄さんの『べつに怒ってない』を読みました。『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に会いそうな本をすすめまくった1年間のこと』の花田菜々子氏が毎日新聞の書評欄で激賞していたので、矢も楯もたまらず。何しろ「何の役にも立たない本」という言葉で絶賛されていたので、何の役にも立たない人間の私が読まなくてどーすると使命感にかられました。


takedasatetsu (1)

武田砂鉄さんというライターについてですが、私は一度NHKの『100分de名著』で見たことがある程度で、著作を読むのは初めてです。何でもいろんな事柄について怒りを表明しているらしいですね。

で、文章上でそんな感じだからか、怒りっぽい人と間違われるらしいんですが、日常生活ではまったく怒らないんですって。むしろ、レストランのウェイターの不注意でナポリタンをぶっかけられたとか、怒ったほうがいい場面でも「怒ったところでどうしようもない」とおとなしくしてるんだとか。てなことがまず、最初のほうに収録されている表題作「べつに怒ってない」に綴られています。

実は私も、海坊主みたいな風貌をしているせいか、何も考えてないのに「怒ってるの?」と訊かれることがよくある。

だから、すごく親近感をもって読み進められました。以下に、特に気に入ったコラムについて感想を記します。すべてのコラムが見開き2ページに収まっていて、とても読みやすいです。


「何やってる会社なの」
武田砂鉄さんが長く続けている習慣が、家の近くにある「何をやっているかよくわからない会社」について調べ、妄想することなんだそう。

ちょっと中を覗いたり、会社名で検索したりする。すると、いつも一番奥に座っている作業着姿のおじさんが社長さんだと判明する。社長の足跡を知る。学生時代からサラリーマン時代のエピソード、さらに独立を決意して今日に至るまでを知り、仕事上のモットーが「誠意」だということ、ラグビーの大ファンであることまで知る。そういうことを知ったうえで会社の前を通るのがとても楽しく、作業着姿の社長さんに「ラグビーのワールドカップ面白かったですね」と突然話しかけてみたらどうなるか妄想するのが楽しいそうだ。

このコラムを読んで思い出したのが、女優の木村多江さんの「ストーカー妄想落語」なるもの。


kimuratae

この人、すごく「おしとやかな美人」然としているけど、かなりの変人です。以前、『サワコの朝』に出ていたとき、ストーカー妄想落語が趣味だと話していたんですね。

街なかで「この人面白そうだな」と思ったら、あとを尾けるそうです。その人がどこへ行き、誰と会って、どんな言動をしているかがだいたいわかったら、大急ぎで帰宅する。家までの時間に落語を創作する。その人がどんな子ども時代を過ごし、いまどんな職業に就いて、家族構成はどんなで、夢は何か、みたいなことを妄想して物語を作る。

そして、帰宅したらすぐに座布団と扇子を用意して正座し、作った噺を独演するそうです。聴いてる人なんか誰もいないのに独りでやるんですって。変でしょう? あんな美人が実はすごい変人だったと知ったのでよく憶えています。

ただ、私もそういうことをもっとやるべきだったな、と思います。脚本家を目指していたんだから、いろんな人の人生や生活を妄想して物語を作る訓練をすべきでした。猛省。したところでもう終わってしまったけど。。。

脚本家の夢をあきらめたことに少し通じる気がしたのが、次のエピソード。


「丸椅子じゃないところ」
86d7259d9d322aa9f371ab8e020b5ae4

どこに食べに行くか、と訊かれたときはたいてい和食とか洋食とかフレンチとかイタリアンとか、食のジャンルを訊かれているのだけど、武田さんは「どこでもいい」らしい。しかし「どこでもいい」というのは言われた側にとってはとても困るものなので、武田さんは「丸椅子じゃないところ」と答えるらしい。

何しろ丸椅子だから体を預けられるところがない。「椅子が椅子である理由は背もたれにある。もし車をレンタルしに行ってオープンカーしかないと言われたらどうか。同じことだ。背もたれはどうしたといいたくなる」というのが武田さん一流の目のつけどころですね。

だから、料理店の検索サイトに営業時間、定休日、喫煙可否などの他に「椅子の種類」を明記してほしいらしい。その店が「丸椅子の店」なら「そこだけはやめよう」とはっきり言えるから、と。

なるほどねぇ。「椅子が椅子である理由は背もたれにある」うーん、確かに! 言われてみたら当たり前のことだけど、いままでまったく考えたことなかった。

このコロンブスの卵というか、この世界に丸椅子が好きな人なんかいるはずがなく、私もできれば丸椅子じゃないところのほうがいいのだけど、それを考えたことがなかった。そこがライターとして世に出た武田砂鉄と、世に出られなかった神林克樹の違いなんだろうな、と思う。

小さなことに目が行くか、目が行ったとしてどこまでこだわれるか。彼我の違いはそこなんでしょうね。


「ただ座っている」
武田さんは、我々現代人は常に目的をもち、目的に縛られている、という。目的をもってパソコンに向かい、目的をもって電車に乗り、目的をもって誰かと食事をする。目的を手帳に書いて次々に目的をこなしている。

だから、ただ座っているだけの老人を見ると不思議な気持ちになる反面、どうしたらああいう境地になれるのかと憧れたりするそうな。ああいうふうに目的をもたずにただ座っていよう。と考えたら、それがもう目的になってしまうから難しい、と。

私も、脚本家の夢を失ったいまでも「目的」を大事にしてますね。ただ座っている、ボケーッとしているという状態に慣れてないし、ものすごく恐れてる。何の役にも立たない時間を過ごしてるんじゃないかと不安になるんですね。無為な時間は大事だと頭ではわかっているのに、常に自分で自分を駆り立てていないと自分がダメになってしまいそうに感じられる。病気ですね。

この本だって「何の役にも立たない本」と知って読みたくなったと冒頭で書いたけど、結局、そういう役に立たない本のどこが面白かったかをブログに書きたい! と思って読んだのである。なぁんだ、結局「役に立つから読んだ」わけね、と、このコラムを読んで自分の計算高さがいやになりました。

a8491092
(↑今年初めに死んだ実家の犬)

目的、動機、理由。そういうものに縛られない生き方をしたい。明日は映画を見に行く。あさっては仕事に行って帰りに整骨院に寄ってから帰る。なんて生活からはいいかげん足を洗いたいのだけど、いったいどうすればそういう境地になれるのか。

たぶん、空前のペットブームというのは、すぐ「それは何の役に立つんですか?」とばかり訊かれる社会に苛立つ人々が「何の役にも立たない」境地に憧れて起こった現象なんだろうと思う。

と、ここまで武田さんの言うことにいちいち膝を打っていた私だったけど、最後のほうに一番膝を打ってしまうコラムに出逢った。


「小指をぶつける」
中年に差し掛かった武田さんは、「そういえば最近、小指をぶつけなくなった」と書いていて、「確かに!」と私は膝を打つどころか叫び出しそうになった。若い頃はあんなにぶつけて声の出ない叫びを何度も上げていたのに、最後に小指をぶつけたのはどう見積もっても15年以上は前なのだ。武田さんが奥さんに「最近小指をぶつけてないよね」と問いかけると「確かに!」と予想以上の好反応が返ってきたとか。これ、周りの人に訊いてみようと思う。おそらく男女問わずほとんどの中年が小指をぶつけなくなっていると思う。

なぜ歳を重ねると小指をぶつけなくなるのか。武田さんはこういう仮説を立てる。

若い頃は動きが俊敏だから、宅配便が来たりすると玄関まで猛然とダッシュする。頭で考えるより先に体が自然と動く。で小指をぶつける。歳を取ると、「もう自分は俊敏ではない」という諦念から、自分で自分の動きに制限をかけているのではないか。

本当かどうかは知らないが、一理あるように思う。

真偽のほどはともかく、こういう細かいことに気づくのがすごいと思った次第。

自分はこういう「目」をもっていなかった、鍛えていなかった、と激しく後悔。やはり世に出ている物書きさんの本を読むと、世に出られなかった自分の至らなさを思い知らされますな。

というわけで、結構役に立つ本でした!


べつに怒ってない (単行本)
武田 砂鉄
筑摩書房
2022-07-19


このエントリーをはてなブックマークに追加