障害者を憎悪する殺人事件が起きたときなどに、「犯人を批判する自分の中にも差別感情が疑いなく存在することを前提にしなければならない」とよくいいますよね。
わかっていながら、自分の中にいままで気づかなかった差別感情があることが今回初めてわかり、ちょいと戸惑っています。
哲学者・中島義道先生の『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)を読んで気づかされました。
差別用語
差別用語という概念があります。メクラ、ツンボ、ビッコなどの言葉ですね。私はあれについて常に言ってきたことがあります。
「『女』という言葉は差別用語でも何でもない。でも『女のくせに』と言ったら立派な差別だろう。問題は『女』にあるのではなく『くせに」のほうにある。だから『差別用語』なんてものは想像上の産物だ」と。
「『あの人はメクラだ』というのはまったく問題ない。『メクラのくせに偉そうに』と言ったら差別だけど」と。
でも違いました。それに気づいたのは、実家でのある出来事です。
数年前、実家に帰ったとき、親父が台所の床の拭き掃除をしていました。尻を床につけて拭きながら、腰を上げず、手をついて移動していたんですね。それを見た母親が言いました。
「何よ、イザリみたいに」
イザリとは下半身がない人のことです。上述の私の言葉が正しいなら、親父をイザリに例えることは差別でも何でもない。はずですが、それを聞いた私はすごくいやな気がしました。首にねっとり気持ち悪いものがまとわりついたみたいに。
イザリ、という言葉の響きに何ともいやな気がしたんですが、そのときに、理由はわからないけれど、メクラやビッコ、ツンボにもいやな響きがあるとわかりました。体で感じずに頭だけで考えていた証拠です。
メクラ、ツンボ、イザリなどの言葉は、盲人、聾啞者、下半身のない人を指し示すだけでなく、その言葉自体に差別心が宿っていると思われます。健常者がそうでない者を嘲笑する態度が含まれている。それに気づかずに偉そうなことを言っていた私は何という愚か者か。
というのはすでに述べたように数年前のことですが、今回、私が自分の中の差別心に気づかされたのは、先に引用した私自身の言葉です。
「『女』という言葉は差別用語でも何でもない。でも『女のくせに』と言ったら立派な差別だろう。問題は『女』にあるのではなく『くせに」のほうにある」
「女」という言葉は差別用語でも何でもないわけではなかった。「女」はただの普通名詞ではなく、差別語なのです。
中島義道はこう言います。
「『男』と『女』は性別を指し示す対等な記号ではない。そこにはすさまじいほど豊かな差別的色合いがこめられている。『彼はいい男だ』というと容貌のことを指すこともあるが、『彼はいい人間だ』という意味でも使うことができる。『勇気のある男』『信頼できる男』の場合はもっとはっきりしている」
「しかし、『女』の場合はこうはいかないのだ。『女』とは、まさにすべての被差別者がそうであるように、差別者(男)の側から意味付与された言葉である。よって、性的意味がもともとこびりついていて、『人間』というニュートラルな意味をもつことはない」
「『いい女』とは性的にいい女に限定され、『人間的にいい女』を意味しえない。『面白い男』は『人間として面白い男』であるが、『面白い女』は男がつきあって『面白い女』であり、『陰のある男』とは『人間として陰のある男』であるが、『陰のある女』は『男との関係において陰のある女』である」
わかっていながら、自分の中にいままで気づかなかった差別感情があることが今回初めてわかり、ちょいと戸惑っています。
哲学者・中島義道先生の『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)を読んで気づかされました。
差別用語
差別用語という概念があります。メクラ、ツンボ、ビッコなどの言葉ですね。私はあれについて常に言ってきたことがあります。
「『女』という言葉は差別用語でも何でもない。でも『女のくせに』と言ったら立派な差別だろう。問題は『女』にあるのではなく『くせに」のほうにある。だから『差別用語』なんてものは想像上の産物だ」と。
「『あの人はメクラだ』というのはまったく問題ない。『メクラのくせに偉そうに』と言ったら差別だけど」と。
でも違いました。それに気づいたのは、実家でのある出来事です。
数年前、実家に帰ったとき、親父が台所の床の拭き掃除をしていました。尻を床につけて拭きながら、腰を上げず、手をついて移動していたんですね。それを見た母親が言いました。
「何よ、イザリみたいに」
イザリとは下半身がない人のことです。上述の私の言葉が正しいなら、親父をイザリに例えることは差別でも何でもない。はずですが、それを聞いた私はすごくいやな気がしました。首にねっとり気持ち悪いものがまとわりついたみたいに。
イザリ、という言葉の響きに何ともいやな気がしたんですが、そのときに、理由はわからないけれど、メクラやビッコ、ツンボにもいやな響きがあるとわかりました。体で感じずに頭だけで考えていた証拠です。
メクラ、ツンボ、イザリなどの言葉は、盲人、聾啞者、下半身のない人を指し示すだけでなく、その言葉自体に差別心が宿っていると思われます。健常者がそうでない者を嘲笑する態度が含まれている。それに気づかずに偉そうなことを言っていた私は何という愚か者か。
というのはすでに述べたように数年前のことですが、今回、私が自分の中の差別心に気づかされたのは、先に引用した私自身の言葉です。
「『女』という言葉は差別用語でも何でもない。でも『女のくせに』と言ったら立派な差別だろう。問題は『女』にあるのではなく『くせに」のほうにある」
「女」という言葉は差別用語でも何でもないわけではなかった。「女」はただの普通名詞ではなく、差別語なのです。
中島義道はこう言います。
「『男』と『女』は性別を指し示す対等な記号ではない。そこにはすさまじいほど豊かな差別的色合いがこめられている。『彼はいい男だ』というと容貌のことを指すこともあるが、『彼はいい人間だ』という意味でも使うことができる。『勇気のある男』『信頼できる男』の場合はもっとはっきりしている」
「しかし、『女』の場合はこうはいかないのだ。『女』とは、まさにすべての被差別者がそうであるように、差別者(男)の側から意味付与された言葉である。よって、性的意味がもともとこびりついていて、『人間』というニュートラルな意味をもつことはない」
「『いい女』とは性的にいい女に限定され、『人間的にいい女』を意味しえない。『面白い男』は『人間として面白い男』であるが、『面白い女』は男がつきあって『面白い女』であり、『陰のある男』とは『人間として陰のある男』であるが、『陰のある女』は『男との関係において陰のある女』である」
なるほど。確かに。
私は男だから、というか、正確には「男」という特権階級にいることを自覚せずに生きてきたのでまったく気づきませんでした。(女と同様、イザリ、メクラなども、差別者(健常者)が障害者に一方的に意味付与した言葉だったから、いやな気がしたわけですね)
だから、MeToo運動とか、女性の地位向上を、とかいった言葉には理解を示しているつもりでも、どこか本質的なことがわかっていないんだと思う。正直に告白すれば、女性たちの叫びを「うるさい」と思ってしまうときが多々あるのです。
しかし彼女たちは、そういう男たちの、大昔から連綿と続いてきた無意識の差別感情を糾弾しているわけで、これを払拭するのは生半可な覚悟では不可能だな、と途方に暮れるのでありました。
私は男だから、というか、正確には「男」という特権階級にいることを自覚せずに生きてきたのでまったく気づきませんでした。(女と同様、イザリ、メクラなども、差別者(健常者)が障害者に一方的に意味付与した言葉だったから、いやな気がしたわけですね)
だから、MeToo運動とか、女性の地位向上を、とかいった言葉には理解を示しているつもりでも、どこか本質的なことがわかっていないんだと思う。正直に告白すれば、女性たちの叫びを「うるさい」と思ってしまうときが多々あるのです。
しかし彼女たちは、そういう男たちの、大昔から連綿と続いてきた無意識の差別感情を糾弾しているわけで、これを払拭するのは生半可な覚悟では不可能だな、と途方に暮れるのでありました。
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