安倍晋三元総理が選挙演説中に銃撃されるという衝撃の事件から早くも一か月。

世間の関心は、国葬の是非と、統一教会と結びついている政治家の追及に傾いています。

国葬は私は反対だけど、特別強い反対ではない。いくら反対意見があろうとやるんだろうし、安倍を神格化することが反感を買って逆に支持率低迷……内閣総辞職、あるいは解散総選挙ということにでもなれば面白い。

しかしながら、統一教会と彼ら詐欺師と通じている政治家の追及は断固やってもらわないと困る。ここで踏ん張らないとこの国はもう終わりでしょう。

ところが、橋下徹や古市憲寿など「あまりヒートアップすると安倍さんを殺した犯人の思う壺になってしまう」と懸念を表明する人が結構いることに驚きを禁じえない。

というか、彼らの言い分がある映画にとてもよく似ていることに気づいて、仕事中に独りでニヤニヤしてしまった。


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デビッド・フィンチャー監督の1995年作品『セブン』がそれ。(以下ネタバレあります)

この映画では、「大食」「高慢」など七つの大罪とされている罪を犯した人間を次々と殺していく連続殺人鬼がいて、ブラピとモーガン・フリーマンの刑事二人が犯人を追うんですが、突然犯人のケビン・スペイシーが自首してきて物語は急転回。

残った七つの大罪は「嫉妬」と「激怒」。スペイシーは逮捕された状態からどうやって残りの二つの殺人をやるのかと思ったら、ブラピの奥さんがとても美しいと知った犯人が自首する前にすでに首を切り落として殺しており、犯人の指示通りの場所に行くと、彼女の生首が入った箱をモーガン・フリーマンが見つける。スペイシー犯人は自分は「嫉妬」という大罪を犯した。あとは「激怒」だけだ。激怒したおまえが私を殺すんだとブラピを挑発する。


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妻が惨殺されたと知ったブラピは激怒して犯人を殺そうとするも、ここで殺したら七つの大罪が完成してしまうとひたすら葛藤に苦しむ。モーガン・フリーマンはやめるんだと制するも、結局ブラピはスペイシーを射殺して逮捕される。七つの大罪は完成。スペイシーの勝利となる。

怒りに任せて殺すべき人間を殺してしまったら犯人の思う壺。というのは、今回の統一教会騒動とまったく同じです。

私は『セブン』という映画が好きではありません。なぜなら、犯人がやっている七つの大罪を完成させる連続殺人はただの「ごっこ遊び」だからです。なぜ狂人が勝手に始めたごっこ遊びに刑事たち良識ある大人たちが真剣につきあってしまうのか。

ブラピは涙を流すほど悩みますが、さっさと撃ち殺してしまえばいいのです。七つの大罪が完成したところで世の中は何も変わらないでしょう? いくら犯人の思う壺でもしょせんはごっこ遊び。完成しちゃったね。それが? と涼しい顔をしていればいい。


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統一教会問題はもちろんごっこ遊びではないし、安倍が射殺されたことも同様です。それに、あまりヒートアップすると犯人の思う壺と主張する人たちの論拠は、同じような事件が続発することを危惧してのことらしいし、『セブン』とはいろいろ違います。

が、統一教会問題はこの国を根っこから揺るがす大問題じゃないですか。詐欺でかき集めたカネと知っていてそのカネを使って選挙で連勝街道まっしぐらだったなんてあまりに恥ずかしい。

私が言いたいのは、「犯人の思う壺になることを恐れるのが人間の性なのかな」ということ。

『セブン』はとてもファンの多い映画だし、好きな人はあのクライマックスにまったく疑問を抱いてないらしい。それほど、悪いことをした人間の思惑通りに事が運ぶことを恐れるのが「普通」なんですね。

でも、だからといって放っとくの? 正気か! いまはそんな「普通」になってていい状況じゃないでしょう。

「異常」なまでの執拗さでこの問題を徹底追及してほしいもんです。

『セブン』の泣きながら犯人を射殺するブラピではなく、平気の平左で射殺しまくるハリー・キャラハンのように。


セブン (字幕版)
ケビン・スペイシー
2013-06-01







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