ツイッター界隈で絶賛されていた『辻占恋慕』を見てきましたが、とてもいい映画だと思いました。(以下ネタバレあります)


『辻占恋慕』(2022、日本)
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脚本・監督:大野大輔
出演:大野大輔、早織、濱正悟、加藤玲奈、川上なな実、堀田眞三


素晴らしいオープニング
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ミュージシャンを目指す女(「月見ゆべし」という名前がとてもいい。「ゆべし」が特にね)と、彼女をマネージャーとして支える男・信太の物語なんですが、まず何よりもオープニングが素晴らしかったですね。

信太もまだこの頃はミュージシャン志望で、ゆべしと同じライブハウスで歌う予定が、コンビを組むギターの男がパチンコにはまってバックレてしまい、ゆべしに代わりに弾いてもらう。それが縁で信太はその道をあきらめ、彼女のマネージャーになるのですが、この冒頭のシーンで、自分の番が回ってきたゆべしがギターを弾き、歌い始めた瞬間、彼女の背後に隠れていたライトが現れ、画面を一気に活気づけるんですね。そのあと、歌のクライマックスに差し掛かるときにも同様のカメラワークがあって、これは最後まで乗って見れそうだとワクワクしました。そのうえ、ゆべしを演じる早織という女優さんの顔がとんでもなくいい。「映画の顔」をしている。

やはり映画は冒頭がとても大事。映画学校で「ラストシーンは誰でも憶えてるけどファーストシーンなんか憶えてない。だからラストシーンのほうが大事だ」と言ってた奴がいましたが、冒頭で観客の喉元に食らいついてこない映画はよくないですよ。乗れないから。


まるで我が事のような
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月見ゆべしは才能あふれるフォークシンガーなんですが、媚を売ることが大嫌いだから、自分を上手に売ることができない孤高の人。アイドルの握手会か何かと勘違いしてライブハウスに来るオッサンに愛想を振りまくような行為は魂を売るに等しいとおそらく彼女は考えている。だから無愛想。そのくせ、ツイッターに自分のことがどう書かれているかは人一倍気にしていて、エゴサしてネガツイを見つけてはいらいらする。よくわかる。

私が脚本家の道をあきらめたのは7年前ですが、ゆべしと同じように孤高を気取ってましたね。コンクールで受賞してもそれは変わらなかった。だから彼女の気持ちはよくわかる。まるで自分のことが映画になったようで、ニヤリとするときもあったし、いたたまれなくなるときもあった。


「生活」という主題
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ゆべしは餃子メーカーのコールセンターで働いていて、客には愛想よく応対する。ゆべしは昼間の仕事では、富岡恵美という本名で嘘八百を並べている。食っていくためにそれはどうしても必要。だからこそ夜のライブハウスでは月見ゆべしという別の名前で本音を歌いたい。でないと魂のバランスを保てない。

信太の「売る作戦」にも一理あるけど、ことごとく裏目に出る。ラジオ番組に出れば横柄なDJに説教されて暴力沙汰を起こす。短編とはいえ主役として映画に出てくれと監督に懇願されて出たら、段ボールで作ったキャタピラーの中で前進するゆべしは画面には映らず、結果的に楽曲を提供しただけ。おそらく最初からそれが監督の狙いだった。ファンからはもっと媚を売らないと有名になれないと言われる。信太も同じことを言う。

深夜のアパートで二人が激論を戦わせるシーンが驚くべきショッでした。古典的ハリウッド映画の作法なら、ゆべしと信太のクロースアップをカットバックさせるであろうに、何とこの映画では、めちゃ変な二人のツーショット。激論を交わす二人の口元やかろうじてゆべしの目が映ったりもするけど、フィックスのカメラが主に撮るのは、二人の間に置かれたコンビニ弁当におにぎり、柿ピー、ビール、そして背景にテレビとティッシュ箱。つまり「生活」。

生活のために売れたいわけじゃない。しかし売れなければ歌手として食っていけるわけではない。でも、そんな生活を手に入れるために歌っているのだろうか。と、ゆべしならずとも思う。

歌うのは何のため? そんな根源的な問いがゆべしの、そして信太の脳裡を何度もかすめたに違いない。ゆべしは言います。

「一番怖いのは、アウトロが始まってることに気づくときかな。ただ長いだけの、終わるのを待ってるだけの無駄な演奏」


唖然呆然のクライマックス
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かつてつきあっていた女に信太はこう言われる。

「はっきりさせたほうがいいよ。彼女を愛してるのか。彼女の才能を愛してるのか。彼女を支えてる自分を愛してるのか」

彼女を愛していると確信した信太は、ライブハウスの二階で開演を待つ14人の客を見下ろしながら、彼女に「愛してる」と言ってスタンガンを撃つ。ゆべしが失神している間に、信太は暴挙に出る。

アイドルの握手会なんて結局ゴルフ代になるだけだぞ!
金なら返すよ。返しゃいいんだろ。返した以上、この小屋に金払ってんのは俺なんだよ。この場を支配してるのはこの俺なんだよ、黙って聞け!
おまえらは自分じゃ何も作らずに人が作ったものに感動しただのまだまだだの、うるせえよ、評論家ヅラしやがって!

最初のほうで、「生きてるうちはみんな作る側なのにね」といういいセリフがありました。いまの世の中、何も作らずに生きている人が多すぎる。これは農林水産業など第一次産業の衰退、サービス業の異常な増加と無関係じゃないと思う。「みんな生産性生産性って言うくせにね」我々は何を「生産」しているのだろうか?

ゆべしが餃子メーカーのコールセンターで働いているという設定もそういうことでしょう。自分では作らずに「おまえんとこの餃子はどうのこうの」と論評してばかりの客に媚びを売って生活費を稼ぐゆべしが、だからこそ本当のことを歌いたい、でも売れなければこの歌はほんの一握りの人にしか届かないというジレンマ。

もうアウトロは始まっていた。ゆべしの歌はもうとっくに終わり、無駄に長いアウトロはすでに始まっていた。だからアウトロをも終わらせるために、この映画の本当の主人公である信太が暴挙に出た。いや、あれは暴挙ではない。ただ自分に正直になっただけ。それですべてが終わる。


ゆべしの「顔」は?
とても意外性があっていいクライマックスだと思いましたが、ひとつ気になることがありました。

スタンガンで気絶させられたゆべしが、意識を取り戻したときはすでに信太が舞台上で客に暴言を放っているんですが、二階から見下ろすゆべしを信太が一瞬見上げ、そのとき表情が少しほころんで、さらにいっそう力を入れて客に罵詈雑言を投げつけるんですね。

あのとき、おそらくゆべしは笑顔で彼を見下ろしていたんだと思います。心の奥底に隠していた思いを信太が代わりに言ってくれている、と。

自分と同じ思いをゆべしも抱いていたとわかった信太は勇気百倍で客たちを愚弄していく。

しかし、それなら、やはりあのときのゆべしがどういう顔で彼を見下ろしていたかは見せるべきじゃないでしょうか。

3年後、信太がカラオケ屋で働いているのは紹介されるけど、ゆべしの現在は紹介されません。画面に映るのは、あの楽曲を搾取されただけの映画で、段ボールを転がして前進するゆべしがそこから抜け出てギターを弾いて大空に向かって歌うという幻想シーン。

ゆべしの現在を観客の想像に任せるのはそれでいいと思いますが、それならやはり、クライマックスで信太をどういう顔で見ていたか、そのクロースアップは見せてほしかった。見たかった。見せなくてもわかるということなんでしょうが、役者さんにとって演じ甲斐のある、監督にとっても演出し甲斐のあるショットになったと思うんですがね。一番大切なショットから逃げてるようにも感じられました。ちょっと残念。

とはいえ、「種をまかなきゃ実りはない」でも「ポテンヒットになるくらいなら空振り三振で上等」などなど、刺さるセリフがたくさんあって見に行ってよかった思いました。

コロナで何度も撮影中断に追い込まれたそうですが、それを奇貨としてシナリオの練り直しができたそうで、人生何が幸いするかわかりませんね。




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