『ゴーストブック おばけずかん』(2022、日本)
脚本・VFX・監督:山崎貴
出演:城桧吏、柴崎楓雅、サニー・マックレンドン、吉村文香、新垣結衣、神木隆之介

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何の新しさとも、何の面白さとも無縁の映画でしたが、それはこの際どうでもいいです。世の中つまらない映画のほうがよっぽど多いんだから。

以下は感想というよりは、見ながら気になったことです。キーワードは……

①サニーという黒人
②子どもらしくない
③PC=政治的な正しさ

順に行きましょう。(ネタバレあります)


①サニーという黒人
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三人組の男子がヒロイン一人と担任教師ガッキーと一緒に、願いをかなえるために、おばけずかんに書かれた指令(一反木綿などのお化けを捕まえること)を次々とこなして、ついに満願成就するという内容なのですが、その三人組の男子に一人黒人が混じっています。

おそらく両親のどちらかがアメリカの黒人でハーフなのでしょう。それがいけないと言っているのではありません。彼が当然のようにメインキャラクターの一人に収まっているのは、多様性を尊重するこの時代にはとても大事なことでしょう。

しかし、他の二人の男子や仲のいい女子や教師のガッキーが仲間として喜怒哀楽を共にするのはわかるけど、やはり彼を排斥しようとするけしからん連中はいると思うんですよね。それをなぜ描かないのか。

多様性はポリティカル・コレクトネスである。だからこのように描いた。と言われてもやはり腑に落ちません。仲のいい男子二人だって、最初はサニーに対して警戒心とかあったはずなんですよね。それを匂わす描写もない。それに、ガッキーは産休に入ったほんとの担任の代わりに急遽赴任してきた先生で、サニーと喋るのは初めてなのに、一言も「ハーフなの?」とか「お父さんアメリカ人?」とか訊かないのもおかしい。

多様性は尊重されるべきだし、差別はよくない。でも、だからといって、そういうけしからんものは厳然と存在する。まるでそんな邪悪なものがこの世に存在しないかのように描くのはいかがなものか。

最終的に、彼らが叶える願いとは、ヒロインの女の子が物語が始まる前に大怪我をしたんですが、その直前に時間を戻して助けに行くというもの。女の子を助けるんじゃなくて、サニーを差別の魔手から救って多様性を高らかに謳いあげるラストではいけませんかね?


②子どもらしくない
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歳は20くらい違うけど、かわいい女子が二人いる。そして男子は自分たち三人だけ。あとはお化け。そんななかで、彼らは三日三晩を過ごすんですが、同じ屋根の下で過ごすなら、やはり風呂を覗きに行くとか、そういう描写がないと何か子どもらしくなくてつまらないですね。

確かに覗きはやっちゃいけないけど(私は23歳のときに土曜ワイド劇場のロケで1週間ほど飛騨高山のホテルに泊まりましたが、毎晩先輩と一緒に女風呂を覗いてました。アッハッハ!)そういう「やっちゃいけないこと」をやってしまう愚かな人間を描いてこそ「映画」なんじゃないかしら。ここにもPCが暗い影を落としています。ガッキーの胸を鷲づかみにするくらいのやんちゃさがほしい。

サニーはおばあちゃんっ子という設定なのですが、男子の一人が「おまえ、ほんとお年寄りに愛されてるよな」というセリフがありました。子どもが「お年寄り」なんて言う? 「老人」とも言わんでしょう。ジジイ・ババアでいいと思うし、それがだめなら、せめて爺さん・婆さんにしてはどうか。ここにもPCが(以下同文)。


③PC=政治的な正しさ
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とにかく、この映画は「清く、正しく、美しく」がモットーみたいで、特に「正しさ」が強調されていました。

人は助け合わなくてはいけない。
人は愛し合わなくてはいけない。
人は夢と希望をもたねばならない。

それが間違いとは言いません。むしろ正しい。しかし、いつから映画は正しいことしか描いてはいけなくなったのでしょうか。

コロナ第7波のせいか、まだ公開二日目の土曜日なのに閑古鳥が鳴いてましたが、それでも少なからず来ていたお客さんはみんな白けてた感じです。あくまで私の主観ですが。

と、ここまで書いてきて、もしかすると私はないものねだりをしているのではないか、という気もしてきました。

つまり、いまの観客、この映画がターゲットにしている10代、20代の若い観客は、日常生活で「お年寄り」と言ってたりするんじゃないか。外国人を排斥したりせず最初から何の疑問もなく仲間に迎え入れたり……いや、さすがにそれはないと思うけどな。だって人間なんて愚かだから差別が完全になくなることはないでしょう。私の心中にも誰かを差別する気持ちは巣食っています。お化けより人の心に巣食う差別心のほうをこそ本の中に閉じ込めるべきでは?

とはいえ、法令遵守が叫ばれ、PCが何よりも尊ばれるこの時代においては、PCに違反する描写をすると観客から総スカンを食らうのでしょうね。日常生活でPC違反をしててもしてなくても、映画でそういう描写を見るとSNSで叩きまくる。叩ける材料を彼らは探しているわけで、作り手も叩かれないように心掛けなければならない。だから子どものセリフに「お年寄り」なんて言葉が出てくるし、子どもたちが女の着替えや風呂を覗いたりしないのでしょう。

表現の自由が権力によってではなく、大衆によって封じられている。何ともいやな時代になってしまったもんです。





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