山田太一さんの『早春スケッチブック』考察第2弾です。
前回の記事(『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤)では、作品の表面に表れていることを考えてみましたが、今回は作者の山田太一さんがおそらくまったく考えていないことについてです。(以下ネタバレあります)
これは僥倖以外の何物でもないというか、たまたま先日、妖怪研究の第一人者、小松和彦さんの『鬼と日本人』という本を読んだのですが、この『早春スケッチブック』の解説本じゃないかというくらいドラマの内容にマッチした本でした。
危うい河原崎長一郎一家

この一家は、ちょっと特殊な成り立ちをしています。
岩下志麻と鶴見辰吾が実の母子で、河原崎長一郎と妹が実の父子。どちらも再婚同士で、兄妹は血がつながっていません。だから兄妹でじゃれてるつもりが急に相手を異性として意識して気まずい雰囲気になってしまったり、岩下志麻と鶴見慎吾のほんとの母子がじゃれているのを彼らと血のつながっていない妹が見たら、とてもいやな顔で部屋を飛び出していく。岩下志麻は必死で取り繕わなければならない。
一見、サラリーマン家庭の理想のような一家ですが、些細なことで崩れかねない爆弾を抱えているのです。その一家が一枚岩になるために召喚されたのが「鬼」たる山崎努です。
「鬼」とは何か

鬼ごっこやかくれんぼをするとき、まず鬼を決めます。そしていったん鬼が決まれば、その鬼を他のみんなは途端に忌避し、逃げ惑う。
鬼とは何か。民俗学を博捜した小松和彦さんはこう書きます。
「人間は恐怖する動物である。恐怖から逃れるために社会集団を作り、さらに国家まで作りあげた。したがって、集団や国家は程度の差こそあれ、それが存続しようとするかぎり、その外部に具体的な鬼を常に必要としているわけである」
「賢王・賢人を語る説話は、彼の偉業をたたえるために、鬼の復活と退治を語らねばならない」
「すなわち、鬼とは日本人にとって招かれざる客であるがゆえに、招かざるをえない客であったということになる」
「恐ろしい鬼は、人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場するのである」
ね? まるでこのドラマのために書かれた文章のようではありませんか?
小松さんの記述に従ってこのドラマを読めばこうなります。

「河原崎長一郎一家は、自分たちの存続のために具体的な『鬼』=山崎努を必要とした」
「ありきたりの代表、河原崎長一郎の勝利を謳うために、ありきたりを蔑む代表、山崎努の登場と、彼の敗北を描かねばならない」
「すなわち、山崎努とは、河原崎長一郎一家にとって、招かれざる客であるがゆえに、招かざるをえない客だったということになる」
「恐ろしい鬼=山崎努は、人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場する」
まさしく! ですね。

彼の実子、鶴見辰吾を彼と引き合わせたのは恋人の樋口可南子ですが、「そう仕向けたのは俺だ」と山崎努は言います。
誰が山崎努を「鬼」として召喚したのかはわかりません。山田太一さんなら「誰もそんなことしてないよ。あんたの言ってることは見当違いだよ」と言うでしょうが、私にはこの作品の山崎努が「招かざるをえない客」であると同時に「招かれざる客」として排除される哀しい物語に見えてしょうがないのです。
最終的に彼を排除するのは病魔であり、その道を選んだのも彼自身です。
しかし、「鬼」の民俗学を知ってしまった私は、どうしても山崎努が、何らかの超越的存在によって河原崎長一郎一家と関わり、そして排除される末路をたどる、そういう物語に見えるのです。
もう一人の「鬼」

大事なのは、「鬼」がもう一人いるという事実です。
第1話のファーストシーン。鶴見辰吾と妹に因縁をつけ、彼を土下座させた不良少女。彼女は河原崎長一郎一家を分断し、危機に陥らせます。つまり、彼女がまず「第一の鬼=プチ鬼」として召喚されたのですが、後半に至って、死期の迫った「第二の鬼=ボス鬼」の面倒を見る役割が与えられます。
はっきり語られませんが、山崎努が病院で死んだとき、看取ったのは樋口可南子ではなく、あの不良少女だったはずです。必要だと招かれながら、招かれざる客として排除される哀しみを理解してあげられるのは彼女しかいない。彼女の兄は刑務所におり、彼女自身も何度も補導されている、つまり、社会から排除された者という設定は、偶然ではないと思います。

小松和彦さんの言葉に従えば、山崎努は「人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場する」らしい。
実の息子に影響を与えたくて、山崎努は「おまえらは骨の髄までありきたりだ!」と叫び、学校の勉強よりもっと大事なことを教えます。心をどうやって育てるか、鍛えるか。そのために鶴見慎吾の現在の父親である河原崎長一郎を貶める。
最終回。河原崎長一郎と対峙した彼は言います。
「私は和彦君に影響を与えたくて、おまえは骨の髄までありきたりだとか言いたいことを言いました。しかし、言葉で相手を責め立てるなど下劣なことです」
そして、一家で泊まりに来ると「こんなことは私の一生で一度もなかった。さぁ、上がってください!」と相好を崩す。そして河原崎長一郎の偉大さを謳ったあと、その夜を最後に彼は帰らぬ人となる。
招かざるをえない客として召喚されながら、招かれざる客として排除される「鬼」の、何という哀しい最期でしょうか。(おわり)
前回の記事
『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤
関連記事
『早春スケッチブック』感想(慚愧の念に耐えられない)


前回の記事(『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤)では、作品の表面に表れていることを考えてみましたが、今回は作者の山田太一さんがおそらくまったく考えていないことについてです。(以下ネタバレあります)
これは僥倖以外の何物でもないというか、たまたま先日、妖怪研究の第一人者、小松和彦さんの『鬼と日本人』という本を読んだのですが、この『早春スケッチブック』の解説本じゃないかというくらいドラマの内容にマッチした本でした。
危うい河原崎長一郎一家

この一家は、ちょっと特殊な成り立ちをしています。
岩下志麻と鶴見辰吾が実の母子で、河原崎長一郎と妹が実の父子。どちらも再婚同士で、兄妹は血がつながっていません。だから兄妹でじゃれてるつもりが急に相手を異性として意識して気まずい雰囲気になってしまったり、岩下志麻と鶴見慎吾のほんとの母子がじゃれているのを彼らと血のつながっていない妹が見たら、とてもいやな顔で部屋を飛び出していく。岩下志麻は必死で取り繕わなければならない。
一見、サラリーマン家庭の理想のような一家ですが、些細なことで崩れかねない爆弾を抱えているのです。その一家が一枚岩になるために召喚されたのが「鬼」たる山崎努です。
「鬼」とは何か

鬼ごっこやかくれんぼをするとき、まず鬼を決めます。そしていったん鬼が決まれば、その鬼を他のみんなは途端に忌避し、逃げ惑う。
鬼とは何か。民俗学を博捜した小松和彦さんはこう書きます。
「人間は恐怖する動物である。恐怖から逃れるために社会集団を作り、さらに国家まで作りあげた。したがって、集団や国家は程度の差こそあれ、それが存続しようとするかぎり、その外部に具体的な鬼を常に必要としているわけである」
「賢王・賢人を語る説話は、彼の偉業をたたえるために、鬼の復活と退治を語らねばならない」
「すなわち、鬼とは日本人にとって招かれざる客であるがゆえに、招かざるをえない客であったということになる」
「恐ろしい鬼は、人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場するのである」
ね? まるでこのドラマのために書かれた文章のようではありませんか?
小松さんの記述に従ってこのドラマを読めばこうなります。

「河原崎長一郎一家は、自分たちの存続のために具体的な『鬼』=山崎努を必要とした」
「ありきたりの代表、河原崎長一郎の勝利を謳うために、ありきたりを蔑む代表、山崎努の登場と、彼の敗北を描かねばならない」
「すなわち、山崎努とは、河原崎長一郎一家にとって、招かれざる客であるがゆえに、招かざるをえない客だったということになる」
「恐ろしい鬼=山崎努は、人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場する」
まさしく! ですね。

彼の実子、鶴見辰吾を彼と引き合わせたのは恋人の樋口可南子ですが、「そう仕向けたのは俺だ」と山崎努は言います。
誰が山崎努を「鬼」として召喚したのかはわかりません。山田太一さんなら「誰もそんなことしてないよ。あんたの言ってることは見当違いだよ」と言うでしょうが、私にはこの作品の山崎努が「招かざるをえない客」であると同時に「招かれざる客」として排除される哀しい物語に見えてしょうがないのです。
最終的に彼を排除するのは病魔であり、その道を選んだのも彼自身です。
しかし、「鬼」の民俗学を知ってしまった私は、どうしても山崎努が、何らかの超越的存在によって河原崎長一郎一家と関わり、そして排除される末路をたどる、そういう物語に見えるのです。
もう一人の「鬼」

大事なのは、「鬼」がもう一人いるという事実です。
第1話のファーストシーン。鶴見辰吾と妹に因縁をつけ、彼を土下座させた不良少女。彼女は河原崎長一郎一家を分断し、危機に陥らせます。つまり、彼女がまず「第一の鬼=プチ鬼」として召喚されたのですが、後半に至って、死期の迫った「第二の鬼=ボス鬼」の面倒を見る役割が与えられます。
はっきり語られませんが、山崎努が病院で死んだとき、看取ったのは樋口可南子ではなく、あの不良少女だったはずです。必要だと招かれながら、招かれざる客として排除される哀しみを理解してあげられるのは彼女しかいない。彼女の兄は刑務所におり、彼女自身も何度も補導されている、つまり、社会から排除された者という設定は、偶然ではないと思います。

小松和彦さんの言葉に従えば、山崎努は「人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場する」らしい。
実の息子に影響を与えたくて、山崎努は「おまえらは骨の髄までありきたりだ!」と叫び、学校の勉強よりもっと大事なことを教えます。心をどうやって育てるか、鍛えるか。そのために鶴見慎吾の現在の父親である河原崎長一郎を貶める。
最終回。河原崎長一郎と対峙した彼は言います。
「私は和彦君に影響を与えたくて、おまえは骨の髄までありきたりだとか言いたいことを言いました。しかし、言葉で相手を責め立てるなど下劣なことです」
そして、一家で泊まりに来ると「こんなことは私の一生で一度もなかった。さぁ、上がってください!」と相好を崩す。そして河原崎長一郎の偉大さを謳ったあと、その夜を最後に彼は帰らぬ人となる。
招かざるをえない客として召喚されながら、招かれざる客として排除される「鬼」の、何という哀しい最期でしょうか。(おわり)
前回の記事
『早春スケッチブック』考察①「サラリーマン的なもの」との葛藤
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『早春スケッチブック』感想(慚愧の念に耐えられない)


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