山田太一さんの不朽の名作、1983年のフジテレビ連続ドラマ『早春スケッチブック』を再見しています。

これまで何度も見返していますが、いままではダメダメな自分を叱咤するために見ていました。
「おまえたちは骨の髄までありきたりだ!」と悪態をつく山崎努を自分自身だと思って見つめ、彼が憎んでいた小市民の代表たる河原崎長一郎に敗北する姿に、自らの敗北を認めて自虐的な悦に入っていました。
が、ようやく距離を置いて見れるようになれました。
この物語の軸になる葛藤は、やはり、「ありきたり」を憎む山崎努と、「ありきたり」の代表である河原崎長一郎との間の深い溝でしょう。
しかし、私は今回見直していて、これは「一人の人間心の中」を描いているのではないか、と思いました。
初放送当時、山田太一さんの大学時代の同期である寺山修司さんが、放送が終わるとすぐ山田さんに電話をかけて熱っぽく感想を語っていたそうです。「やっぱり山田さんは山崎努に心情をのせて書いてるんでしょ?」と訊くと、「僕が書いてるんだから両方とも僕ですよ」とクールな答えが返ってきたとか。
そうです。山田太一さんの心の中に山崎努と河原崎長一郎の二人が存在し、葛藤を演じているわけです。そして、このドラマが多くの人の心をつかんでいるのは、おそらく、ほぼすべての人間に山崎努的なものと河原崎長一郎的なもの、つまり「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」の両方が住まっているのだと思います。
「サラリーマン的なもの」とは

映画界では「サラリーマン」というのは蔑称です。誰かを軽蔑するとき、「あいつはサラリーマンだ」などと言います。撮影所時代、先輩たちがそういう物言いをするのをたくさん聞いたし、私も言っていました。
「サラリーマン」とは何かというと、劇中で山崎努が言うように、「毎日同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じところで同じような仕事をし、同じ時間に家に帰って同じ時間に寝る」そんな判で押したような生活を送る人のことです。
サラリーマンを軽蔑したいた私も、いまでは脚本家の夢をあきらめ、月給をもらうサラリーマンになりました。同じ時間に家を出て、同じところで同じような仕事をし、同じ時間に家に帰って同じ時間に寝る生活です。
確かに撮影所時代は刺激が多くて楽しかったけれど、いまのように判で押したような生活にもまた楽しみがあるし、尊いと思うようになった。やはり山崎努が河原崎長一郎に敗北したように、私も敗北したのです。
「善と善」の対立

しかしながら、大事なのは河原崎長一郎もまた敗者なのですよね。批評家の長谷正人さんが山田太一作品の魅力を語った『敗者たちの想像力』という名著がありますが、山田太一さんのドラマでは、登場人物はすべて敗者だそうです。
全員が敗者であり、全員が勝者である。これはドラマの基本にして奥義でしょう。確かに勧善懲悪ものも好きだけれど、善悪二元論の世界観で作られたドラマばかり見ていいると、世界を見つめるスケールの大きな「眼」が養われません。
私が学んだ高名な脚本家の言葉を借りれば、「善と善」の葛藤劇が理想です。
ここでいう「善」とは善人とか一日一善の善ではありません。その人の言うことに理がある、ということです。
山崎努は息子の鶴見辰吾に言います。
「今年のことは今年中にきちんとする。満員電車で屁を垂れない。目上の人間の言うことは黙って聞く。そんなことは全部くだらないことだ。しかしな、そういう小さな我慢を毎日積み重ねることは大切なことだ。でないと肝心なときに自分を抑えられなくなっちまう」
「映画を見たい。一本我慢する。二本我慢する。三本我慢する。四本目、これだけは見たい。見る。見る力が違う。見たいだけ見てた奴とは集中力が違う」
彼もまた「サラリーマン的なもの」が大事だと言ってるんですね。あらかじめ敗北を宿命づけられていたというべきでしょうか。
しかしまた、彼はこうも言うのです。
「しかし物事には限度ってもんがある。四本目も我慢し、五本六本と我慢し、八本十本と我慢しているうちに、何も見たくなくなっちまう。何を見たいのかわからなくなっちまう。自分の欲望を抑えつけすぎちゃいけない」
この作品の山崎努はかなりエキセントリックで自分勝手な人物ですが、言葉に力があります。理があります。これが「善」です。
そして、理不尽な上司の叱責に耐え、元日に押しかけてくる部下たちを迷惑に思いながらもいやな顔一つ見せない河原崎長一郎の言動にも理がある。よくわかる。これが「善と善」の対立です。
和田誠さんのデビュー作にして傑作『麻雀放浪記』で、鹿賀丈史演じるドサ健が平凡な屋台の親父にこんなことを言うシーンがありました。
「てめえらみたいな奴は相手が本当に自分が好きな女か、そんなこともわからなくなっちまってるんだ。てめえらにできることは長生きだけだ。我慢してクソ垂れて生きてくだけだ」
見事に山崎努と同じことを言っています。
が、ドサ健だけでなく、主人公の坊や哲、高品格の出目徳も同じ価値観をもっており、彼らへのカウンターの役が気弱な大竹しのぶだけというところが『早春スケッチブック』の激烈な対立葛藤劇と違うところです。どちらが好きかは好みの分かれるところでしょうが。(私はどっちも大好き)
ファーストシーンの重要性

『早春スケッチブック』では、第一話のファーストシーンがすべてを象徴しています。
中一の妹が不良少女にカツアゲされそうになっているところを目撃した高三の兄・鶴見慎吾は、不良少女の言うとおり土下座して事なきを得ようとします。妹はそんな兄がふがいなくて立腹する。
「サラリーマン的なもの」の代表たる河原崎長一郎は鶴見辰吾に同調し、かつてスケ番だった母親の岩下志麻は妹の気持ちがわかるという。

小市民的な一家、つまりサラリーマン的な一家にも、また、「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」が同居しているのです。
山崎努と河原崎長一郎を軸としている物語ですが、山崎努の中にも河原崎長一郎的なものがあるし、河原崎長一郎にも山崎努的なところがどこかにある。でないと最終話で和解できないでしょう。
山崎努に感化されて共通一次の試験会場から逃げ出す鶴見慎吾の心中にも二つの価値観はもとからあっただろうし、もちろんかつて山崎努と恋仲だった岩下志麻の心中にも、「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」が同居しています。
そして、私たちの心にも。一人の人間の中に真逆の価値観が同居してせめぎ合っている。この『早春スケッチブック』はその冷厳な事実を見る者に突きつけてきます。
「ひとつの家に二つのものが同居」というのは、もともと違う家庭の母子と父子が再婚してできた家だということにも通じるのですが……(つづく)
続きの記事
『早春スケッチブック』考察②「鬼」としての山崎努
関連記事
『早春スケッチブック』感想(慚愧の念に耐えられない)



これまで何度も見返していますが、いままではダメダメな自分を叱咤するために見ていました。
「おまえたちは骨の髄までありきたりだ!」と悪態をつく山崎努を自分自身だと思って見つめ、彼が憎んでいた小市民の代表たる河原崎長一郎に敗北する姿に、自らの敗北を認めて自虐的な悦に入っていました。
が、ようやく距離を置いて見れるようになれました。
この物語の軸になる葛藤は、やはり、「ありきたり」を憎む山崎努と、「ありきたり」の代表である河原崎長一郎との間の深い溝でしょう。
しかし、私は今回見直していて、これは「一人の人間心の中」を描いているのではないか、と思いました。
初放送当時、山田太一さんの大学時代の同期である寺山修司さんが、放送が終わるとすぐ山田さんに電話をかけて熱っぽく感想を語っていたそうです。「やっぱり山田さんは山崎努に心情をのせて書いてるんでしょ?」と訊くと、「僕が書いてるんだから両方とも僕ですよ」とクールな答えが返ってきたとか。
そうです。山田太一さんの心の中に山崎努と河原崎長一郎の二人が存在し、葛藤を演じているわけです。そして、このドラマが多くの人の心をつかんでいるのは、おそらく、ほぼすべての人間に山崎努的なものと河原崎長一郎的なもの、つまり「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」の両方が住まっているのだと思います。
「サラリーマン的なもの」とは

映画界では「サラリーマン」というのは蔑称です。誰かを軽蔑するとき、「あいつはサラリーマンだ」などと言います。撮影所時代、先輩たちがそういう物言いをするのをたくさん聞いたし、私も言っていました。
「サラリーマン」とは何かというと、劇中で山崎努が言うように、「毎日同じ時間に起き、同じ時間に家を出て、同じところで同じような仕事をし、同じ時間に家に帰って同じ時間に寝る」そんな判で押したような生活を送る人のことです。
サラリーマンを軽蔑したいた私も、いまでは脚本家の夢をあきらめ、月給をもらうサラリーマンになりました。同じ時間に家を出て、同じところで同じような仕事をし、同じ時間に家に帰って同じ時間に寝る生活です。
確かに撮影所時代は刺激が多くて楽しかったけれど、いまのように判で押したような生活にもまた楽しみがあるし、尊いと思うようになった。やはり山崎努が河原崎長一郎に敗北したように、私も敗北したのです。
「善と善」の対立

しかしながら、大事なのは河原崎長一郎もまた敗者なのですよね。批評家の長谷正人さんが山田太一作品の魅力を語った『敗者たちの想像力』という名著がありますが、山田太一さんのドラマでは、登場人物はすべて敗者だそうです。
全員が敗者であり、全員が勝者である。これはドラマの基本にして奥義でしょう。確かに勧善懲悪ものも好きだけれど、善悪二元論の世界観で作られたドラマばかり見ていいると、世界を見つめるスケールの大きな「眼」が養われません。
私が学んだ高名な脚本家の言葉を借りれば、「善と善」の葛藤劇が理想です。
ここでいう「善」とは善人とか一日一善の善ではありません。その人の言うことに理がある、ということです。
山崎努は息子の鶴見辰吾に言います。
「今年のことは今年中にきちんとする。満員電車で屁を垂れない。目上の人間の言うことは黙って聞く。そんなことは全部くだらないことだ。しかしな、そういう小さな我慢を毎日積み重ねることは大切なことだ。でないと肝心なときに自分を抑えられなくなっちまう」
「映画を見たい。一本我慢する。二本我慢する。三本我慢する。四本目、これだけは見たい。見る。見る力が違う。見たいだけ見てた奴とは集中力が違う」
彼もまた「サラリーマン的なもの」が大事だと言ってるんですね。あらかじめ敗北を宿命づけられていたというべきでしょうか。
しかしまた、彼はこうも言うのです。
「しかし物事には限度ってもんがある。四本目も我慢し、五本六本と我慢し、八本十本と我慢しているうちに、何も見たくなくなっちまう。何を見たいのかわからなくなっちまう。自分の欲望を抑えつけすぎちゃいけない」
この作品の山崎努はかなりエキセントリックで自分勝手な人物ですが、言葉に力があります。理があります。これが「善」です。
そして、理不尽な上司の叱責に耐え、元日に押しかけてくる部下たちを迷惑に思いながらもいやな顔一つ見せない河原崎長一郎の言動にも理がある。よくわかる。これが「善と善」の対立です。
和田誠さんのデビュー作にして傑作『麻雀放浪記』で、鹿賀丈史演じるドサ健が平凡な屋台の親父にこんなことを言うシーンがありました。
「てめえらみたいな奴は相手が本当に自分が好きな女か、そんなこともわからなくなっちまってるんだ。てめえらにできることは長生きだけだ。我慢してクソ垂れて生きてくだけだ」
見事に山崎努と同じことを言っています。
が、ドサ健だけでなく、主人公の坊や哲、高品格の出目徳も同じ価値観をもっており、彼らへのカウンターの役が気弱な大竹しのぶだけというところが『早春スケッチブック』の激烈な対立葛藤劇と違うところです。どちらが好きかは好みの分かれるところでしょうが。(私はどっちも大好き)
ファーストシーンの重要性

『早春スケッチブック』では、第一話のファーストシーンがすべてを象徴しています。
中一の妹が不良少女にカツアゲされそうになっているところを目撃した高三の兄・鶴見慎吾は、不良少女の言うとおり土下座して事なきを得ようとします。妹はそんな兄がふがいなくて立腹する。
「サラリーマン的なもの」の代表たる河原崎長一郎は鶴見辰吾に同調し、かつてスケ番だった母親の岩下志麻は妹の気持ちがわかるという。

小市民的な一家、つまりサラリーマン的な一家にも、また、「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」が同居しているのです。
山崎努と河原崎長一郎を軸としている物語ですが、山崎努の中にも河原崎長一郎的なものがあるし、河原崎長一郎にも山崎努的なところがどこかにある。でないと最終話で和解できないでしょう。
山崎努に感化されて共通一次の試験会場から逃げ出す鶴見慎吾の心中にも二つの価値観はもとからあっただろうし、もちろんかつて山崎努と恋仲だった岩下志麻の心中にも、「サラリーマン的なもの」と「それを蔑む心」が同居しています。
そして、私たちの心にも。一人の人間の中に真逆の価値観が同居してせめぎ合っている。この『早春スケッチブック』はその冷厳な事実を見る者に突きつけてきます。
「ひとつの家に二つのものが同居」というのは、もともと違う家庭の母子と父子が再婚してできた家だということにも通じるのですが……(つづく)
続きの記事
『早春スケッチブック』考察②「鬼」としての山崎努
関連記事
『早春スケッチブック』感想(慚愧の念に耐えられない)


コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。