映画監督の森達也さんが天皇と天皇制を題材に初めて書いた小説『千代田区一番一号のラビリンス』を読みました。


私の「天皇制」に対する立場
tennnou

まず、天皇制への私の立ち位置を表明しておくと、天皇制は残したほうがいいと思っています。

やはり全国民の代わりに、この国の五穀豊穣を祈る祭祀の存在は必要です。太古からある祭祀を廃絶なんかしてしまったら、祟りがあるかもしれない。

「祟りがある」という信憑をもたない民族はこの世に存在しません。もしいたら、彼らは「人間」ではありません。それほどまでに人間とは「宗教的な存在」であり、だから、私の天皇制への賛意も「宗教」的なものです。でも、それは同時に「政治」的でもあります。

この小説でも何度も主人公が疑問に思う「象徴とは何か」という問題については、全国民の穢れを代わりにしょってもらってると考えてはどうでしょう? 政治的に考えると「象徴」って何だ? わけがわからない、となりますが、宗教的に、ナザレのイエスが民衆の原罪を一身に背負って磔刑に処せられたように、天皇が全国民の穢れをしょっている。それが「象徴」と捉えたらどうかと思うのです。

江戸時代、穢多・非人や各地を転々とする芸能民や遊女などの被差別民は天皇と密接な関係にあったと言われますし、天皇という祭祀は「穢れ」とは切っても切り離せないと思うのです。

天皇を宗教から捉え直すことを提案したうえで、『千代田区一番一号のラビリンス』の感想に移りましょう。


書評が出ない「問題小説」
tennnou (1)

さて、小説の話です。
森さんは天皇と憲法一条、つまり天皇制を題材にしたドキュメンタリーを2005年に企画していたらしいですが、フジテレビから「番組として成立しない」の一点張りで中止に追い込まれ、以来、その出来事を題材にした小説を書き続けてきたとか。苦節17年。大難産の末の刊行らしい。実際、書いたものの出版してくれる出版社がなかなか見つからなかったとか。現代書館という出版社は名前くらいしか知らなかったけど、この本を出したことで私の中で現代書館の株は天井知らずの絶賛暴騰中です。

フジテレビが中止に追い込んだ理由は、文中で言及される通り、「天皇が題材だから」しかありえません。素の天皇を撮ろうとして、だめならだめでその過程も撮る。つまり、メタ・ドキュメンタリー的なものになってもいい、いや、ならざるをえないだろうという企画だったそうですが、それすらだめだと。天皇だから。

天皇を扱うと不敬だと言われる。みんな恐れて扱わない。いったい誰を恐れているのか。実際に何らかの圧力があるから恐れているのではなく、圧力があると思い込んでいるから委縮しているだけではないのか。と主人公は語ります。

それはたぶんにあると思いますね。京都にいた時分、バスの中で天皇の話を始めた私に対し、友人は「危ないからやめとけ」と言いました。危ない? 何が? 別に天皇の悪口を言っていたわけではない。ただ話題が天皇に関することだっただけ。危ないのではなく、危ないと思い込んでるだけだと思ったのを思い出しました。

この本はもう出版されて3か月がたとうとしているのに、まったく書評が出ないそうです。理由は簡単。天皇を扱っているだけでなく、呼称が「天皇」でも「陛下」でもなく、名前の「明仁」だからです。皇后は「美智子」(いまの天皇ではなく、現在の上皇が生前退位する直前の物語です)。小説の書評を書く以上は登場人物の名前を書かずにすますわけにはいかないから、誰も書かないし、書いたところで新聞社や出版社はボツにしてしまう。「危ないから」と。

1960年代前半には、明仁の弟の常陸宮を主人公にしたギャグマンガが集英社のマンガ雑誌に連載されていたとか。タイトルは『火星ちゃん』。常陸宮が火星人に似ていたからとかで、その頃はまだそういうものを「危ない」と思う人が少なかったんですね。いまは「危ない」と思う人だらけ。


苗字がない、それが天皇の証し
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「でも私たちにはファミリーネームがないのよ」と美智子が言うように、天皇家には苗字がありません。なぜ苗字がないか。

中学のときの社会の先生が教えてくれました。苗字というのは本来、天皇が臣民に与えた称号のことだと。最初にその栄誉にあずかったのが藤原鎌足。源氏や平氏だって、天皇の子どもなど天皇家の人間が皇室を出るときに天皇から与えられた氏でした。光源氏だって天皇の子どもだし。

天皇が与えるものなのに、その天皇に苗字があったらそれは誰から与えられたのか、となって完全におかしくなってしまう。だから天皇には苗字がなくて当然なのです。苗字がないから戸籍もない。戸籍がないから住民票もない。だから選挙で投票ができないのかな。ハガキを郵送しようがないから。それとも皇室典範に選挙権がないと明記されているのか。そのへんの事情は知りません。

戸籍といえば、明治になって国民を管理し、特に徴兵しやすくするために戸籍制度が作られました。苗字は先述した通り、天皇から与えられるもので、それなりの血筋や地位のない人には苗字などありません。江戸時代の日本人はほとんどが百姓でしたから苗字をもっていない。でも富国強兵で徴兵するためには戸籍を作らないといけない。戸籍は旧法時代でも現在の新法時代でも氏を単位として作られます。そこで各地の庄屋さんが、あなたは山下、あなたは中村、などと勝手に決めていった。

本来天皇が与えていた苗字を庄屋が与えた。私などはそっちのほうがよっぽど「不敬」じゃないかと思うんですが、何しろ戸籍は徴兵のため、つまり天皇のために死ぬ人間を選別するためだから「不敬」とはならないということなんでしょうね。なるほど。

おそらく、庄屋は天皇の命令で苗字を与えていたんでしょうな。天皇の命令といっても実際は明治政府の命令。そんなの「天皇の政治利用」以外の何物でもない。

というか、ほとんどの歴代天皇は政治のために利用され続けてきました。「天皇のために」と言っていた偉い人ほど天皇を利用していた。「不敬」とは彼ら権力者のためにある言葉のはずです。

天皇が政治家に対し反旗を翻した「天皇による政治家利用」が明仁の「生前退位」だったように思います。


「象徴」とは何か
日本国民統合の「象徴」とは何か、誰も考えてこなかった。象徴する側が考えなければいけないのに誰も考えないから、象徴される天皇自身が考えてきた。みたいなことが本書には書かれています。主人公の独白として書かれていますが、森達也さん自身の思いでしょう。

この小説には面白い仕掛けがあります。

カタシロという正体不明の生き物なのか何なのか正体のわからない化け物みたいなのが出てくるんですね。

カタシロ、つまり形代。人の形をしたもので、神霊を憑りつく依り代のこと。人形。身代わり。

カタシロは何かの象徴なのか。輪郭はあるけど実体はない。天皇を象徴してるのかと思ったけど、世界中で目撃されているというから違うんでしょう。最後のほうでは、主人公とその恋人と天皇夫妻を直接つなぐ通信装置みたいになってたけど、何を象徴しているのかよくわからなかった。

『連合赤軍』で長谷川和彦監督が導入しようとした「超能力」に似たものを感じたのは私だけでしょうか。長谷川さんから、超能力に関すること何でもいいから教えて、と言われたけど、そっちの方面には疎いから何も教えてあげられなかった。というか、連合赤軍に超能力? 面白そうだけど、うまく映画にできないがゆえに変なものを出そうとしてるんじゃないの? と思った。

この『千代田区一番一号のラビリンス』のカタシロにも同じ匂いを感じます。うまく書けないがゆえに変なものを出してつなごうとしてる感じ。カタシロが出てこないほうが面白かったと思う。


皇居の地下は黄泉の国? 
皇居の地下には地下道があって、ポツダム宣言受諾の御前会議もここで開かれたとか。主人公と恋人、明仁と美智子が四人連れだってその道を歩いていく。と、道路標識があって「自民党」と「電通」と書いてある。

どうも皇居の地下には黄泉の国が広がっているらしく、地下道はその境界。『古事記』で穢れたイザナミを見て逃げたイザナキ(文中には「イザナギ」とあるけど「イザナキ」では?)がイザナミが追ってこれないように大きな石を置いた。それがチビキノイワで、自民党と電通がそれにあたるという。

これは爆笑しました。天皇を「日本国民統合の象徴」とするも、「象徴」とは何かを明示せず、それどころか国民にそれについて何も考えさせないように計らってきたのが自民党と電通だという。

日本の戦後史は自民党と電通が作ってきた。あまりに直截的すぎるとは思うけど、的を射ているから笑える。とすれば、自民党的なものと電通的なものを滅ぼしてしまえば、この国の「本当の戦後」がやっと始まるのかもしれません。






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