若松孝二監督の1970年作品『新宿マッド』を久しぶりに見ました。何度見ても素晴らしい!


『新宿マッド』(1970、日本)
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脚本:出口出(足立正生)
監督:若松孝二
出演:谷川俊之、江島裕子、寺島幹夫


物語のあらまし
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学生運動に身を投じていた一人の学生が殺される。彼の父親は郵便配達夫をやりながら男手ひとつで息子を育ててきた人で、「なぜ息子は殺されなければならなかったのか。殺したのは誰なのか」真相を究明するために地方から出てくる。警察に疎まれながらも、「新宿マッド」が殺したという情報を得る。はたして新宿マッドとは誰なのか。息子の死の真相は?


自由を叫びながら自由に生きられない若者たち
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時代はフリーセックスを提唱するヒッピームーブメントの時代。殺された息子も彼女とセックスを楽しんでいたし、近しい若者たちも乱交に興じる。

が、決定的に彼らは堕落している。自由に生きたいというわりには、公園の土管の中でキスをする。本当に自由に生きたいなら堂々と人前でやれば? と思う。盗んだギターで歌を歌うことはできるが、キスは隠れてしかできない。

そんな彼らより、「私には他に売るものがないから自分の体を売ってるの」とつぶやく街娼の女のほうがよっぽど自分に正直だ。

今回見直していて、ハイデガーが『存在と時間』で書いた「世人(せじん)」という概念を思い出した。

同調圧力に屈し、世間と同じであることに安堵を覚える、思考停止した人々。

主人公の父親は世人とは正反対の人間。自ら考え、自らの足で、自らの言葉で目的を遂行していく。警察から公務執行妨害でしょっ引くぞ、と脅されてもへこたれない。あえて空気を読まないのが「世人」ではない何よりの証しだ。


ファッションとしての革命
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父親はついに新宿マッドに会う。ここまでの緩急のつけ方が実にうまい。簡単に情報源に会えるかと思ったら、次は焦らされたり。最後は新宿マッドのほうから父親が立つすぐ横の公衆電話に電話をかけてきて会えるという通俗ぶり。こういうご都合主義は大歓迎。「映画の原理」が「世界の原理」に勝利した瞬間の快感がある。

それはさて、新宿マッドに会った父親は、彼に質問すると驚くべき答えが返ってくる。

「何のための革命だ」
「革命のための革命だ」

彼らには何も目的がない。政治の季節だから革命だ闘争だと叫んでいるだけ。つまり「ファッションとしての革命」。革命闘争をしていると女にモテるとか、ただそれだけ。学生なら革命闘争に参加してないのはダサいからやる(ダサいなんて言葉はまだなかったろうが)。それだけ。何も自分の頭で考えてない。周りに流されているだけの「世人」たち。


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そんな彼らに殺された息子の父親は、息子が警察の犬だった、つまり、新宿マッドたちの情報を警察に売っていた、だから殺されたとの事実を知らされるが、彼は少しも堪えない。


どっちが「犬」か
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なぜなら、新宿マッドたちは常に徒党を組んで群れていないと安心できない世人だから。息子は裏切り者だった。戦中派の父親にとって、憲兵や軍に情報を売る民間のスパイは反吐が出るほど嫌いだった。あんな奴らは殺されて当然だと思った。最終盤、うれしそうに群れて走る新宿マッドたちを見て、父親は、自分の息子は彼らより立派だったと思ったことだろう。

確かに権力の犬だった。しかし、(おそらく)拳銃をもたずに自分と同じように足だけで捜査する刑事と、常に火炎瓶を用意し、いつでも投げる用意がある彼ら(おそらく守ってくれる親がいる)のほうがよっぽど凶暴だし、卑劣である。

そんな彼らの情報をたった独りで売っていたのなら、少なくとも息子は「世人」ではない。独りで夜の町に立つ娼婦と同じだ。体を張っているし、何より徒党を組まず、孤独に耐えている。

刑事たちから、本当の新宿マッドは去年刺されて死んだと聞かされる。じゃあ昨夜新宿マッドと名乗ったあの男はいったい誰だったのか。と観客は思うが、父親は少しも驚かない。

空気を読むことに長け、同調圧力に屈し、ファッションとしての革命を大義名分に殺人に手を染める新宿マッドのような輩は、次々とウジ虫のように湧いて出てくるだろう。

あいつらのほうがよっぽど「犬」じゃないか!!


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2017-08-02


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