いま実は四連休中なんです。先週の金曜日と明日の月曜日が臨時休業となったためです。時給だと給料が減りますが、久しぶりの月給制なのでいくら休みが増えても給料が減らない。こういうのは毎月でもあるといいニャ。
それはさて、内田樹先生と、「三軸修正法」という施術で多くの患者さんの体の不調を治してきた池上六朗さんとの対談本『身体(からだ)の言い分』(毎日文庫)を読みました。

例によって内田先生は脱線が多いので話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりするんですが、「エゴイスティックに生きよ」という箇所には大いに膝を打ったんですよね。
エゴイスティックに、といっても、他人に迷惑をかけてでも自分勝手に、ということではありません。そんなことしたら、迷惑をかけていることへの申し訳なさから委縮したりして不調に陥る。つまり、自分勝手に生きるのは少しも気持ちよくないからだめだよ、と言っているのです。

自分勝手に生きよ、というのは、自分が気持ちよく生きること。といっても、自分が気持ちよくなるために他人の気持ちを推し量るとかでなく(それは他人を自分のための道具と考えるやり方です)他人の考えてることなんてわかるはずがないんだから考えてもしょうがない。それより、自分が気持ちいいかどうかで行動の理非を判定する。
他人がいやな思いをしていれば自分もいやな思いをするなら、その対偶、自分がいやな思いをすれば他人もいやな思いをしていることになるから、自分が気持ちいい生き方をしていれば、それは周囲の人間にとっても快適なはずだと。だから「エゴイスティックに生きよ」となるんですね。
と、ここまでは本で読んだ知識です。本で読んで得たことは実践しないと意味がない。

実はこの四連休、ちょっと心につっかえていることがあるんです。前に書いた肝臓のあれやこれやは、特に問題なかったです。ただ、食べすぎだから食生活の改善をきつく言われただけ。三か月後に再び血液検査で、そこでもし悪化してたら薬飲まないといけなくなるかもしれないので頑張らなくっちゃ。
それはさて、この四連休で心につかえていることとは他でもない。会社の同僚さんのことです。
いまの仕事は先月入ったばかりなんですが、それでももう1か月半になるのに、まだ研修中なのです。専門性が高いので記憶すべき量が多い。
それはいいとしても、同期の四人のうちの一人の女性が問題なんですよね。
詳細は知りませんが、何らかの問題を抱えているらしく、連休に入る前の前の日、つまり先週の水曜日にかなりしんどくなってしまったようなんです。あまりに顔色が悪いので会社に「帰らせてあげたほうがいいと思いますよ」と言ったんですが、会社と話をした彼女は定時まで頑張るという。
帰ったほうがいいと思うけど、と喉から出かかった言葉を呑みこんだ私はそれ以上何も言いませんでしたが、定時になり、帰る際に「あんまり無理しないでくださいね」とだけ声をかけたんですが、そのときものすごい目で睨まれたんですね。
何だよ、人が心配しているのに! と駅への帰り道、憤慨してしまったんですが、そのとき頭に浮かんだのが、「エゴイスティックに生きよ」という内田樹先生の言葉だったんです。

死んだ親父がよく言っていました。
「おまえのためを思って言ってるんじゃないか!」
嘘だとわかってました。そんなことを言う人間は本当は自分のためしか考えていないのです。
が、私も同じ穴のムジナでした。「無理しないでくださいね」と相手のためを思ったようなことを言ったけれど反感を買ったら、あんたのためを思って言ってるんじゃないか! と思ってしまった。彼女の身を案じているふりというか、そのためのアリバイ作りとして一見やさしい言葉をかけただけだったのです。やさしい人を演じていただけ。自分が気持ちよくなる道具として彼女の気持ちを考えていただけです。偉そうなことを言いながら、他人を道具にしていたのは他でもない私でした。本当にあの人のことを案じていれば、反感を買ったとしても、何がいけなかったのか、自分に問題があるのかどうか、と考えたはず。
たくさん本を読み、たくさんなるほどと思っているのに、少しも実践できていない自分を恥じました。
あの翌日、つまり連休直前の木曜日はお休みだったその女性は、はたして連休明けのあさっては出勤するでしょうか。来たら、何と声をかけるべきか。
この場合の「エゴイスティックに」とはどういうことか。自分もその人も気持ちよくなる言葉って何なんだろう?
たったそれだけのことがわからず、悶々とした日々を過ごしています。やはり、人生、死ぬまで勉強ですな。


それはさて、内田樹先生と、「三軸修正法」という施術で多くの患者さんの体の不調を治してきた池上六朗さんとの対談本『身体(からだ)の言い分』(毎日文庫)を読みました。

例によって内田先生は脱線が多いので話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりするんですが、「エゴイスティックに生きよ」という箇所には大いに膝を打ったんですよね。
エゴイスティックに、といっても、他人に迷惑をかけてでも自分勝手に、ということではありません。そんなことしたら、迷惑をかけていることへの申し訳なさから委縮したりして不調に陥る。つまり、自分勝手に生きるのは少しも気持ちよくないからだめだよ、と言っているのです。

自分勝手に生きよ、というのは、自分が気持ちよく生きること。といっても、自分が気持ちよくなるために他人の気持ちを推し量るとかでなく(それは他人を自分のための道具と考えるやり方です)他人の考えてることなんてわかるはずがないんだから考えてもしょうがない。それより、自分が気持ちいいかどうかで行動の理非を判定する。
他人がいやな思いをしていれば自分もいやな思いをするなら、その対偶、自分がいやな思いをすれば他人もいやな思いをしていることになるから、自分が気持ちいい生き方をしていれば、それは周囲の人間にとっても快適なはずだと。だから「エゴイスティックに生きよ」となるんですね。
と、ここまでは本で読んだ知識です。本で読んで得たことは実践しないと意味がない。

実はこの四連休、ちょっと心につっかえていることがあるんです。前に書いた肝臓のあれやこれやは、特に問題なかったです。ただ、食べすぎだから食生活の改善をきつく言われただけ。三か月後に再び血液検査で、そこでもし悪化してたら薬飲まないといけなくなるかもしれないので頑張らなくっちゃ。
それはさて、この四連休で心につかえていることとは他でもない。会社の同僚さんのことです。
いまの仕事は先月入ったばかりなんですが、それでももう1か月半になるのに、まだ研修中なのです。専門性が高いので記憶すべき量が多い。
それはいいとしても、同期の四人のうちの一人の女性が問題なんですよね。
詳細は知りませんが、何らかの問題を抱えているらしく、連休に入る前の前の日、つまり先週の水曜日にかなりしんどくなってしまったようなんです。あまりに顔色が悪いので会社に「帰らせてあげたほうがいいと思いますよ」と言ったんですが、会社と話をした彼女は定時まで頑張るという。
帰ったほうがいいと思うけど、と喉から出かかった言葉を呑みこんだ私はそれ以上何も言いませんでしたが、定時になり、帰る際に「あんまり無理しないでくださいね」とだけ声をかけたんですが、そのときものすごい目で睨まれたんですね。
何だよ、人が心配しているのに! と駅への帰り道、憤慨してしまったんですが、そのとき頭に浮かんだのが、「エゴイスティックに生きよ」という内田樹先生の言葉だったんです。

死んだ親父がよく言っていました。
「おまえのためを思って言ってるんじゃないか!」
嘘だとわかってました。そんなことを言う人間は本当は自分のためしか考えていないのです。
が、私も同じ穴のムジナでした。「無理しないでくださいね」と相手のためを思ったようなことを言ったけれど反感を買ったら、あんたのためを思って言ってるんじゃないか! と思ってしまった。彼女の身を案じているふりというか、そのためのアリバイ作りとして一見やさしい言葉をかけただけだったのです。やさしい人を演じていただけ。自分が気持ちよくなる道具として彼女の気持ちを考えていただけです。偉そうなことを言いながら、他人を道具にしていたのは他でもない私でした。本当にあの人のことを案じていれば、反感を買ったとしても、何がいけなかったのか、自分に問題があるのかどうか、と考えたはず。
たくさん本を読み、たくさんなるほどと思っているのに、少しも実践できていない自分を恥じました。
あの翌日、つまり連休直前の木曜日はお休みだったその女性は、はたして連休明けのあさっては出勤するでしょうか。来たら、何と声をかけるべきか。
この場合の「エゴイスティックに」とはどういうことか。自分もその人も気持ちよくなる言葉って何なんだろう?
たったそれだけのことがわからず、悶々とした日々を過ごしています。やはり、人生、死ぬまで勉強ですな。


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