話題の光文社新書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史)を読みました。


著者の迷い
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「昔はレコードなんて本物の音楽を聴いたうちに入らないって目くじらを立てる人がいたんだって」と我々は笑うが、そう遠くない未来、我々は笑われる側に回るのかもしれない。昔は倍速視聴にいちいち目くじらを立てる人がいたんだって、と」

という一文で締めくくられる本書は、しかし、あとがきにおいて、再度問題提起します。

「映画を早送りで観るなんて、いったいどういうことなのだろう?」

そういう時代なのだという諦観と、いや、時代に関係なくそれは間違っているという感覚のせめぎ合いは私も感じました。

著者自身がかつては映画を倍速で見ていたといいます。理由は、映画雑誌で映画の紹介文を書く仕事をしていて、一晩で何本も見て文章を書かねばならず、「致し方なく」そういう見方をしていた、と。

現代の若者(若者にかぎらないらしいですが)も「必要に駆られて」倍速で見ているという。著者が取材すると、次のような流れがあったとか。


①映像作品の供給過多
②現代人の多忙に端を発するコスパ・タイパ志向
③セリフですべてを説明する映像作品の増加



①映像作品の供給過多の背景
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「配信メディアをはじめとした映像供給メディアの多様化・増加」

これはどうしようもない時代の趨勢ですね。たくさんの作品が見られること自体はいいことだし、私みたいなクラシック映画ファンも満足するラインナップをそろえたU‐NEXTみたいな配信サイトもある。(1回だけお試しで入っただけだけど)


②コスパ・タイパ志向の背景
「SNSによって共感を強要され、周囲が見えすぎてしまうことで『個性がなければ生き残れない』と焦り、失敗を恐れる若者の気質」

「自己紹介欄に書く要素がほしい」「何かのエキスパートになりたい」とオタクに憧れている現代若者気質。そのために「何を見ればいいかリスト化してほしい」。で、そのリストにある作品を消費すれば他の作品には興味ばないらしい。

これを見ればエキスパートになれる。養老孟司先生は、最近のそういう考え方を「ああすればこうなる」と表現しています。一定の入力をすれば決まった出力が得られる。しかし、人間も映画もそんな単純なものではありません。ああしてもこうならないことのほうが多いし、人生はままならない。

「個性的であれ」と育てられたZ世代は、SMAP『世界に一つだけの花』が歌う価値観の洗礼を受けた世代だといいます。みんなオンリーワンになりたいらしい。しかし、本当のオンリーワンは誰かに「何を見たらいいですか?」なんて訊かないんですけどね。我が道を行くうちにいつの間にか周りからオンリーワンと言われるようになる。「ああすればこうなる」とは決して考えず、ただ自分の好きなこと、やりたいことに邁進する。それだけでいいのに、マニュアルをほしがる。ほんとの個性ってマニュアル化されてないもののはずなのに。


③説明セリフの氾濫の背景
「SNSで『バカでも言える感想』が可視化されたことによる『わかりやすいもの』が求められる風潮の加速と、それに伴う視聴者のわがまま」

『花束みたいな恋をした』について、あらかじめ結末を知ってから見る人はこう言ったそうです。「予告編の段階で二人が別れることはわかってますから。恋愛映画は過程のほうがよっぽど大事なんで」


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噴き出してしまいました。倍速で見ておいて「過程が大事」? んなアホな!


「時間の概念」の決定的な欠落
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私がこの本で一番許せないと思ったのは、次の視聴者のわがまま。

「平凡なシーンは不要。だから倍速で飛ばす」

いやいや、そのシーンが平凡かどうかは見終えてからわかることじゃないの? 平凡な日常風景かと思ってたら重要な伏線だったとあとでわかるなんて普通にあるし。

だから、ちゃんと最後まで見てないのに「このシーンは平凡である」と断定する態度は非常に傲岸不遜だと思うわけです。

最近は大人でも子どもでも「それは何の役に立つのか」とすぐ聞きますけど、それと同じじゃないですかね? 

数学を勉強するなんて将来の役に立たないという人は多い。でも、「将来の自分」が何をしているか、なぜ現在の自分にわかるんですか? もしかしたらいろんな人との出会いを通して考え方が変わり、10年後、20年後には数学を駆使した仕事をしているかもしれない。

この本を読むと、キラキラネームをつける親が多いのもうなずけます。彼らには「いま」しか見えていないのです。赤ちゃんや幼稚園児なら光宙(ピカチュウ)ちゃんでもいいでしょうが、その子が成人になり、社会に出て、いずれは老人になるという時間の概念が決定的に欠落している。人間は変化することを少しも勘定に入れていない。

それは、映画を早送りする人たちにも言えることです。

いま自分が見ているシーンが平凡なシーンか否か、重要なシーンか否かは、「その映画を見終わった自分」が判断することです。

そして、映画を見るというのは(もちろん小説を読むでも同じ)その映画を倍速などではなく普通に鑑賞し終えた自分を想定してするものです。無意識ですが、誰でもやっていることです。

「その映画を最後まで鑑賞した自分」と「まだそこに到達していない自分」とのせめぎ合いなんですよね、映画に身をゆだねる経験というのは。

結末がこうなったら最高。
この人物が実はこういうキャラだったらがっかりだ。
この二人は最後に結ばれてほしい。でも悲恋で終わったほうが心に残るかも。

「最終的にその映画を見た自分」は物語の進行とともにゆらいでいき、変化していきます。「まだそこに到達していない自分」も同じように変化していきます。両者の微妙な差異は映画が終盤に近づくほど小さくなっていきますが、どんでん返しやクライマックス直前のクライシス(危機)などで再び大きく揺らぎます。そして結末に至って両者は初めて合致する。そこにカタルシスや感動と言われるものがあるのです。

「心を揺さぶられたくない」という人は、自分が変化することを恐れているのです。だからあらかじめ結末を知って自分をそこに固定しておいてから見る。でないと安心できない。確固たる自分が揺らぐなんてもってのほかと思っているのでしょうが、すぐれた映画ほど見た人を内側から変えます。映画を見たあと世界が違って見えるなんて経験は何度もあります。

いくら倍速で見て数多くの作品を視聴しても、そういう経験をしたことがない(これからもない)なら、それこそコスパ・タイパが悪いことにはなりませんかね?


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鷲田 清一
KADOKAWA
2013-04-11



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