話題の『シン・ウルトラマン』見てきました。(以下ネタバレあります)
『シン・ウルトラマン』(2022、日本)
企画・脚本:庵野秀明
監督:樋口真嗣
出演:斎藤工、長澤まさみ、西島秀俊、有岡大貴、早見あかり、山本耕史、田中哲司
実相寺昭雄オマージュ

あまりいい例ではありませんが、こういう奇抜なショットがこの映画にはたくさんあります。セリフをしゃべる二人の人物が、大きくなめられた椅子の両端の隙間からかろうじて映っているなんてのもたくさんありました。明らかにウルトラ・シリーズのメイン監督だった実相寺昭雄監督へのオマージュですね。
でもおそらく樋口真嗣監督は、そういう変な画ばかりだと、CMをはさんで正味22、3分のテレビドラマならいいだろうけど、2時間の映画では観客が疲れると判断したのでしょう。

こういうごく普通のフルショットや何の変哲もないクロースアップも結構挿入されてました。配慮のあるいい演出ですね。
最初はこういう画的な面白さにのめりこんで見ていましたが、次第にこの映画の脚本にどんどん魅了されていきました。
「映画の原理」と「世界の原理」

まずは「世界の原理」に囚われることなく、「映画の原理」を優先したことですね。
子どもの頃はまったく疑問に思いませんでしたが、正体がウルトラマンの男が、怪獣退治の組織(MATとかTACとか)に所属してるって普通に考えればおかしいですよね。そういう組織に入るための頭脳と肉体はもってるんでしょうけど、優秀でさえあれば採用されるとはかぎらない。それが「世界の原理」ですが、昔のウルトラ・シリーズもこの『シン・ウルトラマン』もそれは捨象してウルトラマンは禍威獣退治の組織・禍特対にいる! 文句あるかと開き直っている。その開き直りがいい。
そして、斎藤工がウルトラマンの正体なのは最初の禍威獣が退治されたときにわかります。そして、劇中人物の誰もが彼がウルトラマンだと知るのはそれからほんの少しあとなんですよね。
普通なら、あいつ何か最近怪しいぞ、おまえ、ちょっと尾けろ、と西島秀俊が長澤まさみに命令して、長澤が必死で尾行して変身する瞬間を目撃しようとするもタッチの差で間に合わないとか、凡百の脚本家やプロデューサーならそういうサスペンスを入れようとするじゃないですか。でも庵野秀明さんはそんなことはしない。
人間ドラマを排除

ウルトラマンの正体は斎藤工であると簡単に暴露させる。これだけで小気味がいいのに、西島や長澤たちはすぐにそれを受け入れる。普通なら何らかの「人間ドラマ」を入れたがるじゃないですか。でも庵野さんはそんな平凡なことを絶対しない。彼がウルトラマンの正体だという事実に驚きはするけど、そこに何の葛藤も迷いもなく、ただひたすら彼を応援することに賭ける。本当に小気味がいい。人間ドラマとか、そういうよけいなものは一切排除する。これは庵野秀明さんの作劇哲学ですね。
最も重要なシーンも排除

しかし、この『シン・ウルトラマン』では「よけいなもの」だけでなく「重要なシーン」まで排除してしまっているのです。そしてそこがこの映画最大の肝なのです。
シン・ウルトラマンは旧ウルトラマンと違い、光の星から来た外星人と人間が融合したハイブリッドです。そう、斎藤工はもとはただの人間でした。そこへ禍威獣退治に現れたウルトラマンが、自分の命を投げ出して子どもを助けようとする斎藤工を見て、「人間が好きになった。人間をもっと知りたい」と彼と融合する。
最終盤、旧シリーズと同じくゼットンに殺されたウルトラマンは、命をもってきたゾフィの「おまえを助ける。悪いが神永(斎藤工の役名)には死んでもらう」との非情な言葉に対し、「俺の代わりに神永を助けてやってくれ」と言う。「そんなに人間が好きになったのか」とゾフィは言うんですが、神永の自己犠牲やそれを見たウルトラマンが感動するとかはただセリフで語られるだけで、そんな大事なシーンをオンで描かずオフで処理するというのはすごいことです。少なくとも回想シーンくらいは入れたくなるじゃないですか。それすらしない。
人間讃歌!
ウルトラマンが齊藤工の自己犠牲を目撃するシーンがあって初めて、ウルトラマンの「人間が好きになった」という言葉に信憑性が生まれると考えるのが普通の作劇術ですが、そんな大事なシーンをカットした理由はひとつしかありません。
「人間とは自己犠牲するのが当たり前の生き物である」というメッセージを、この『シン・ウルトラマン』は打ち出しているということです。だからわざわざ描かない。
いまだに世界各地で紛争があり、今年は手前勝手な都合で侵略戦争に手を染めた輩もいる人類に対し、「人間は自分たちが生きている星の環境を破壊する愚かな生き物」という外星人の言葉で始まったはずが、最終的に「人間は自己犠牲するのが当然の素晴らしい生き物」に着地する。
これほどの人間讃歌が他にありましょうか。人間ドラマを否定し、あえてその手のシーンを一切描かないことで大いなる人間讃歌を謳う。しかもセリフで声高に訴えるのではなく、作劇術として作者の思想を滲み出させる。
庵野秀明さんは新しい作劇術を発明してしまいましたね。すごい。
蛇足
でもこれは、総監修が庵野さん自身じゃなかったらできなかった芸当ですね。脚本家が一番偉い人だったからできた。すぐれた芸術家に全権委任して失敗した映画にティム・バートンがプロデューサーも兼ねた『マーズ・アタック!』がありますが、『シン・ウルトラマン』は成功した。芸術って面白い!
さらに蛇足(長澤まさみ)

この映画で長澤まさみは改めて「スター」だと思いましたね。斎藤工や西島秀俊と対等に渡り合える役者なんてそういるもんじゃない。
同世代の女優には、綾瀬はるかとか石原さとみがいて、彼女たちは女としては好みだけど、女優としては長澤まさみのほうが段違いで上でしょう。格が違う。
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『シン仮面ライダー』感想(これは役者に対する冒瀆です)


『シン・ウルトラマン』(2022、日本)
企画・脚本:庵野秀明
監督:樋口真嗣
出演:斎藤工、長澤まさみ、西島秀俊、有岡大貴、早見あかり、山本耕史、田中哲司
実相寺昭雄オマージュ

あまりいい例ではありませんが、こういう奇抜なショットがこの映画にはたくさんあります。セリフをしゃべる二人の人物が、大きくなめられた椅子の両端の隙間からかろうじて映っているなんてのもたくさんありました。明らかにウルトラ・シリーズのメイン監督だった実相寺昭雄監督へのオマージュですね。
でもおそらく樋口真嗣監督は、そういう変な画ばかりだと、CMをはさんで正味22、3分のテレビドラマならいいだろうけど、2時間の映画では観客が疲れると判断したのでしょう。

こういうごく普通のフルショットや何の変哲もないクロースアップも結構挿入されてました。配慮のあるいい演出ですね。
最初はこういう画的な面白さにのめりこんで見ていましたが、次第にこの映画の脚本にどんどん魅了されていきました。
「映画の原理」と「世界の原理」

まずは「世界の原理」に囚われることなく、「映画の原理」を優先したことですね。
子どもの頃はまったく疑問に思いませんでしたが、正体がウルトラマンの男が、怪獣退治の組織(MATとかTACとか)に所属してるって普通に考えればおかしいですよね。そういう組織に入るための頭脳と肉体はもってるんでしょうけど、優秀でさえあれば採用されるとはかぎらない。それが「世界の原理」ですが、昔のウルトラ・シリーズもこの『シン・ウルトラマン』もそれは捨象してウルトラマンは禍威獣退治の組織・禍特対にいる! 文句あるかと開き直っている。その開き直りがいい。
そして、斎藤工がウルトラマンの正体なのは最初の禍威獣が退治されたときにわかります。そして、劇中人物の誰もが彼がウルトラマンだと知るのはそれからほんの少しあとなんですよね。
普通なら、あいつ何か最近怪しいぞ、おまえ、ちょっと尾けろ、と西島秀俊が長澤まさみに命令して、長澤が必死で尾行して変身する瞬間を目撃しようとするもタッチの差で間に合わないとか、凡百の脚本家やプロデューサーならそういうサスペンスを入れようとするじゃないですか。でも庵野秀明さんはそんなことはしない。
人間ドラマを排除

ウルトラマンの正体は斎藤工であると簡単に暴露させる。これだけで小気味がいいのに、西島や長澤たちはすぐにそれを受け入れる。普通なら何らかの「人間ドラマ」を入れたがるじゃないですか。でも庵野さんはそんな平凡なことを絶対しない。彼がウルトラマンの正体だという事実に驚きはするけど、そこに何の葛藤も迷いもなく、ただひたすら彼を応援することに賭ける。本当に小気味がいい。人間ドラマとか、そういうよけいなものは一切排除する。これは庵野秀明さんの作劇哲学ですね。
最も重要なシーンも排除

しかし、この『シン・ウルトラマン』では「よけいなもの」だけでなく「重要なシーン」まで排除してしまっているのです。そしてそこがこの映画最大の肝なのです。
シン・ウルトラマンは旧ウルトラマンと違い、光の星から来た外星人と人間が融合したハイブリッドです。そう、斎藤工はもとはただの人間でした。そこへ禍威獣退治に現れたウルトラマンが、自分の命を投げ出して子どもを助けようとする斎藤工を見て、「人間が好きになった。人間をもっと知りたい」と彼と融合する。
最終盤、旧シリーズと同じくゼットンに殺されたウルトラマンは、命をもってきたゾフィの「おまえを助ける。悪いが神永(斎藤工の役名)には死んでもらう」との非情な言葉に対し、「俺の代わりに神永を助けてやってくれ」と言う。「そんなに人間が好きになったのか」とゾフィは言うんですが、神永の自己犠牲やそれを見たウルトラマンが感動するとかはただセリフで語られるだけで、そんな大事なシーンをオンで描かずオフで処理するというのはすごいことです。少なくとも回想シーンくらいは入れたくなるじゃないですか。それすらしない。
人間讃歌!
ウルトラマンが齊藤工の自己犠牲を目撃するシーンがあって初めて、ウルトラマンの「人間が好きになった」という言葉に信憑性が生まれると考えるのが普通の作劇術ですが、そんな大事なシーンをカットした理由はひとつしかありません。
「人間とは自己犠牲するのが当たり前の生き物である」というメッセージを、この『シン・ウルトラマン』は打ち出しているということです。だからわざわざ描かない。
いまだに世界各地で紛争があり、今年は手前勝手な都合で侵略戦争に手を染めた輩もいる人類に対し、「人間は自分たちが生きている星の環境を破壊する愚かな生き物」という外星人の言葉で始まったはずが、最終的に「人間は自己犠牲するのが当然の素晴らしい生き物」に着地する。
これほどの人間讃歌が他にありましょうか。人間ドラマを否定し、あえてその手のシーンを一切描かないことで大いなる人間讃歌を謳う。しかもセリフで声高に訴えるのではなく、作劇術として作者の思想を滲み出させる。
庵野秀明さんは新しい作劇術を発明してしまいましたね。すごい。
蛇足
でもこれは、総監修が庵野さん自身じゃなかったらできなかった芸当ですね。脚本家が一番偉い人だったからできた。すぐれた芸術家に全権委任して失敗した映画にティム・バートンがプロデューサーも兼ねた『マーズ・アタック!』がありますが、『シン・ウルトラマン』は成功した。芸術って面白い!
さらに蛇足(長澤まさみ)

この映画で長澤まさみは改めて「スター」だと思いましたね。斎藤工や西島秀俊と対等に渡り合える役者なんてそういるもんじゃない。
同世代の女優には、綾瀬はるかとか石原さとみがいて、彼女たちは女としては好みだけど、女優としては長澤まさみのほうが段違いで上でしょう。格が違う。
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