昨日、仕事帰りの電車内である言葉を聞きました。

何でもその人は私と同じようなガチな映画ファンで、よく映画館に行くと。で、先日予告編を見ていたら、何かあったのか、出入り口から映画館のスタッフが別のスタッフに大声で指示している声が聞こえてきたそうです。

「いくら本編でなく予告編の最中とはいえ、ああいうのは興醒めするからやめてほしい」

と至極当然な感じで言っていましたが、私は大いに疑問に思いました。


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そりゃ、予告編でも大きな声が聞こえてきたらいやな気がするのはわかります。でも、いみじくもその人が「いくら本編でなく~」と言っているように、本編中じゃないんだから別にいいのでは?

本編の上映中だと必ず出入り口の扉は締まりますし、映画館の防音効果は高いのでいくら大きな声で叫ぼうとも中の観客には聞こえません。

シネコンだと、出入り口から観客席までって防音効果をより高めるためなのか、ちょっと入り組んでますよね。だから、舞台はミニシアター系だったんじゃないかと思われますが、いずれにしても、中の客にはっきり聞こえるほど何かを指示していたなら、かなり大きなトラブルがあったはず。スタッフとして急を要することだったのは間違いなく、きちんと事に対応しようとしていた、つまり彼らはちゃんと仕事をしていたわけで、それならそれでいいじゃないかと思う。大きな声で指示をしたがゆえに事が大きくならずにすみ、その人も映画本編を存分に楽しめたかもしれないわけですから。



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だから、その人の「予告編の最中でもスタッフは大きな声を出すな」というのは過剰なサービス要求だと思います。

スタッフは観客が気持ちよく予告編も含めてすべてを十全な環境で楽しめるよう配慮すべきだ、ということなんでしょうけど、大きな声で指示をせねばならないほどのトラブルがあったのなら、それはもうしょうがない。その人は完全な自己中心主義者だと言わざるをえません。

クレーマー社会と言われるようになって久しいですが、自分が客なら何を言ってもいいと思っている人がとても多い。映画ファンは映画の「消費者」ですが、消費者とはマルクスによれば「労働者」です。

映画ファンは仕事の日は労働者として顧客の理不尽な要求に応えねばならない。そのストレスで休日に映画館に行ったとき、今度は客として理不尽な要求をする。

これはもう誰が悪いという話ではなく、日本社会が抱える構造的な問題でしょう。「お客様は神様です」はサービスする側が言う言葉なのに、サービスを受ける側が言うようになってからクレーマーがクレーマーを生む悪循環にはまってしまいました。

私は食料品の次に映画にお金を使っています。だから、労働者としてストレスを抱えていても、スーパーやコンビニ、映画館で理不尽な要求をせず、できるだけ礼儀正しくしていることを党是としています。

映画館スタッフに理不尽な要求をすれば、そのスタッフさんは休日に消費者として別の店や会社に対し理不尽な要求をする。それがめぐりめぐって自分のところへ返ってきます。どこかでこの悪循環を絶たないと、自分で自分の首を絞めることになるだけです。

あまり細かいことに囚われず、大らかでいたいと思った週末の夕暮れでした。


蛇足
最近は、エンドクレジットの最中に立ったり、上映中にトイレに行ったりするのも「迷惑行為」と捉える人がいるそうですが、自分がトイレに行かざるをえなくなったときのことをまったく考えてませんね。世の中にはいろんな人がいる。自分が泣いたシーンで隣の人は白けていた。自分が爆笑したシーンで場内は静まり返っていた。などなど、映画館は「自分と他者の価値観の差異を知る場所」なのに。


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加藤幹郎
中央公論新社
2014-07-11





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